誕生、そして激動【人生編#1】
2002年5月7日
そう!何を隠そうこの日付こそ、この世に居本篤人、後に「いもと。」としてパンクロッカーになる男が誕生した伝説の始まりなのであーる!
東京都は練馬区で生まれ、5才まで団地で母親と耳の聞こえない祖父母と一時期は叔父さんとも暮らしていた。母親はシンママなので、父親の顔はもちろん名前も知らない。しかしそれを負い目に感じたこともない。
ちょっとサイズ感の大きい、顔立ちがメリットの子役みたいなズル賢いガキで、ミスタードーナツと絵が大好きな至って普通の子供だった。たった一つのことを除いては…
ライヴハウスとバンドマン
僕は1才にもなる前から母親にライヴハウスへと連れていかれていた。今僕が聴いてるバンドは大抵この時に出会った周辺のバンドが多い。その中でも僕はThe Jerry Lee PhantomとHiGEに大いに惚れ込んでいた。HiGE好きを公言すると、周りのバンドマンから「シブいね(笑)」なんて言われることもしばしばあった。よくわからないが、こういう音楽をロックと呼ぶのだろうということは本能的に理解していた。
よく考えてみれば、大人に混じって3〜4才の子供がThe Jerry Lee Phantomのダンスミュージックにノって飛んで歌ってるなんておかしな風景だよな(笑)
この頃に、CB&BTのコスプレをさせてもらったりもしてる。非常に良くしてもらってた事だけは覚えてるよ。
そして故郷を離れルーツへ
最近色んなところで自己紹介の時も言うし、YouTubeの概要欄に書くように設定したところだが、何を隠そう僕は九州(宮崎県)がルーツなのである!曾祖父が死に、曾祖母が施設に入ったあたりでうちの祖父母が宮崎に帰ると言い出した。これは4才の頃だったかな?その1年か半年後くらいに、僕と母親も宮崎に着いて行った。ここで1年間宮崎県暮らしが始まるのさ…
もちろん、その前にも何度も宮崎には行っているし、短期間ではあるが訛ることも出来ているので、初めての環境ではない。
しかし、この状況下に長期で置かれるという事は、幼少期の僕にとって非常にいい経験であり、有意義な時間であったと確実に言えるだろう。
標高が高く、空気が澄み、近くに川と用水路が流れ、玄関を出たら山が見え、その山の中を通り3km歩いて保育園まで行き、保育園でもまたアクティブに動き、3km歩いてまた家へ帰る。休みの日は近くの山の湧き水を汲んだり、ダイワファームでソフトクリームを食べたり、近所の温泉に入ったり、親戚の家に遊びに行ったりしていた…
そして、僕はこの生活になる前になんと弟が生まれた。そしてもっと重大な出来事、父親ができるというイベントがあった。
その父親こそが、Understatementsのドラマーであるヨネちゃんだったのだ!
勿論、母親から相談があって快諾したが、今思えばもの凄いことだよな…って僕が父親になって強く感じてる。
そんな激動の日々は、小学校に上がっても続いていく…
続きはまた次の機会で!お楽しみに!
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