しあわせはお腹に溜まるらしい
いつもは、2歳の次女の方が早起きなのだけど、その日は3歳の長女が先に起きてきた。
平日の朝6時。
のんびりと着替えをして、スキンシップして、大好きよーを沢山浴びせて。
次女は、まだ起きて来ない。
長女が言う「長女ちゃんね、しあわせの夢みたよ」。
へーいいね!しあわせの夢!!
しあわせな、じゃなくて、しあわせの、って言うところがまたいい。
「誰かと一緒だった?」と訊くと「みんな、にこにこしてたんだよ」と。
いいなぁ。しあわせの夢。お母さんも見たい。
このところ、NOTEのネタに、実家族のことや幼少期のことを思い出したりすることが増えたからなのか、悲しい夢や苦しい夢ばかり見ている私は、素直に羨ましがった。
「お母さんは、しあわせの夢じゃないの?」と聞かれたので「お母さんは、この頃、かなしい夢ばかりだよ」と愚痴った。
すると。まさかの。
「それは、キムチのせいだよ」と、言われた。
えぇ?キムチのせいなの?
毎夕、私と夫が食べる、コストコの大きなボトルのキムチに興味津々で、進出単語の『キムチ』を使いたかっただけだろうけど。
「キムチ食べなければ、かなしい夢見ないかな?」
ちなみに、この日の前夜に見た夢は、夫に愛人がいるらしい、というのを見つけて、わなわなと震える夢だったのだけど。キムチを食べなければ、そういう夢を見ないのなら、お母さんはキムチを我慢するかも。
「キムチたべると、おなかがからくなるでしょう?」と訊かれた。
あぁ、うん。お口の中がね、辛くなる。
「おくちの中もだけど、ごくんして、おなかの中がからいでしょう?」
そう?かな?うん。
「しあわせは、おなかにあつまってくるんだよ」
なんじゃその素敵な表現!!
しあわせは、お腹に集まるの?
「そう。それで、たくさんたまると夢になるの」
「おなかをからくしたら、しあわせ逃げちゃう」
いや、もう、完璧な理論すぎて、返す言葉もない。
沢山のHAPPYが溜まると、HAPPYな夢が見られる。
HAPPYを溜めて置く場所はお腹だから、お腹に負担を掛けちゃいけない。
夢に溢れ出してくるくらいの、しあわせが娘の小さなお腹に沢山詰まってるんだなぁ、だからこの小さなお腹が、小さな身体が、とてつもなく愛しくて尊いのか。と、なんだか、俄然納得がいった。
わかった。お母さん、今夜はキムチ食べないようにするね!
と、宣言したものの、うっかりその夜もキムチのボトルを空け、せっせと自分の五穀米の上に乗っけていた。
それをまた、目ざとく長女が見つけて「おかあさん!」と窘めてきた。
「まーた、かなしい夢になっちゃいますよ!」
なぜか敬語で窘めてきた。まるで先生。
「あぁ、そうだった、そうだった。じゃぁちょっとにしておくね。いつもより少なめに」と、足掻く私に「それがいいですね」と頷く長女。
はて。
キムチがお腹に溜まったしあわせを壊してしまうのなら、何がしあわせを形成しているんでしょうね?という、疑問がわき上がる。
「ねぇ、長女ちゃん、しあわせはどこからやってくるの?」という、哲学的な問いをぶつけてみた。言葉に出してみて、ちょっとしまった!と思った。揚げ足取りのような、追い詰めるような、論破しようとしているような、そんな問いだったかもしれない。
けれど、長女は「そうねぇ」と考えるような素振りを見せ、味噌汁椀を手に取って言った。
「ワカメのしあわせの夢よ」
美味しい物を食べると、元気になる、っていうのは、生き物としての根本な気がする。理に…適っている…のか…?
夫は呆れて苦笑い。
「はよ食え。しあわせのワカメを」と言っている。
哲学の話とか宇宙の話をしたいわけでも、理詰めにしたいわけでもなくて、単純に3歳児の発想が面白くて、へぇ!そうなんだ!と、まるで娘に世の理を教わるような姿勢で、ついつい娘の話に引き込まれてしまう。
この長女が1歳をちょっと過ぎた頃、母音AがOになってしまうので「ワカメ」と「お米」が全く同じ発音になる!ということを私が発見し、面白がってスマホで「ワカメ」「オコメ」を言うだけの動画を撮った。
「長女ちゃん、長女ちゃん『ワカメ』」
「オコメ」
「『お米』」
「オコメ」
なんだか分からないけれど、大喜びする母を見て、長女も嬉しそう。
キョトン顔で。「オコメ」「オコメ」と言っている。
よーく聞けば、イントネーションで若干違う「オコメ」と「オコメ」。
私は、今でも疲れた時、独りでこっそりその動画を見ている。
しあわせのワカメの動画。