憑依型人間のちょっとした作り方
この記事はゆる民俗学・音楽学ラジオ非公式アドベントカレンダーの15日目として書くものです。この場をお借りして文章を書ける事、心より嬉しく思います。
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はじめに
はじめましての方も何度目ましての方もご機嫌よう。ひらぐり・ひらりです。
音楽/写真/被写体/絵/短歌/ハンドメイドなど、創作を好き勝手やっている人です。
音民鯖的には浦下さんを自分の生誕ライブに呼んで演奏して頂いたり、ゆる学徒カフェで個展を開いたり、稀にオープンマイクでおしゃべりしたりするクリエイティブクレイジーオタクです。そんなことあるかい。
オタクラジオ?知らない子だなぁ、、、(震え)
憑依型って言われがち問題
創作活動のひとつとして、わたしはオリジナル曲を制作しライブ活動をしているのですが、その中でしばしば言われる言葉があります。
「ひらりさんって憑依型のアーティストですよね。」
憑依型とは、特に演劇やステージに上がる人に使われる言葉で、役が自分に乗り移ったかのような演技をする人、舞台の上で普段と別人のようになってしまう人のことを指します。
別人のようかは自分では判断できませんが、わたしは舞台での記憶があまり残りません。ライブに来てくれた友人に「本当にわたし、歌ってた?」と確認するくらいです。なので、ライブが終わった後は不安です。自分が覚えていない姿を衆目に晒しているのが怖すぎる。覚えてないことを賞賛されるのも評価されるのも貶されるのも怖すぎる。マジで。
ただ、身体的な疲労は残るので、ライブの次の日は指も動かせないほどの筋肉痛に見舞われて、どうやらちゃんとやってたらしい、、、とその時になってようやく思ったりします(最近は筋肉量が増えてそこまではならなくなりました、フィジカル)。とにかく、筋肉も記憶もぶっ飛ぶくらい全開でエネルギーというエネルギーを放出しているのは事実です。
その他、まだわたしがひとりでライブ活動をしていない頃、カラオケに一緒に行った友人の前で好きなアーティストの曲を歌って「歌ってる曲のアーティストっぽい顔にちゃんとなるんだね」と言われたこともあります。日常でも、感情によって顔のモードが切り替わるとも言われました。これも自分で観測しようがないので何ともですが、まあそう思う人も居るみたいです。
ついにゆる民公録でも言われる
ところで、ゆる民俗学&音楽学ラジオサポコミュ(以下、音民鯖)では、サポーター限定のオフ会及び公開収録が毎月最終水曜日に行われるのが定例となっており、某月のサポーター限定公開収録にて、シャーマン研究をなさっている方がゲストとしていらしてました。
そのゲストの方に、半分世間話くらいで
「ライブとかやってるんですけど、演奏中の記憶が無いんですよね〜!わはは!」と言ったところ、「シャーマンじゃないですか!!!!!」といくつか質問をされて「研究対象にしていいですか?ライブあったら教えてください!」と言われました。そんなことあるかい。
まあまあ、その発言は冗談も含むでしょうし、実際わたしがシャーマンなのかも置いといて、確かにあくまで「憑依型人間」としての話なら出来ます。
そして「憑依型」は才能だと言われることも多いですが、資質や訓練次第である程度の再現が可能だとも思っています。
そんな訳で、今回は「憑依型人間のちょっとした作り方」を紹介します。
軽めの注意事項
わたしは民俗学的な知見はほぼ皆無です。ゆる民俗学ラジオを聞いて泣いたり笑ったりしては内容を忘れまくって、記憶力の良い諸壁の皆様に歯軋りしてるレベルです。皆マジですごい。ぐぎぎ。
加えて、元々進路が理系だったことも手伝って、人文学の知識全般が浅いです。
なので、自分自身の感覚や体験、創作活動や人生に限定した話をします。けして憑依型表現を推奨するものではありません。あくまでレアなn=1の話として気楽にお読み下されば幸いです。
その上で、何か失礼がある可能性もあります。その時は対応、謝罪申し上げますので、そっとご報告下さると嬉しいです。
(シャーマンや憑依について、9月末から1ヶ月に渡り更新された、ゆる民俗学ラジオも記憶に新しいです。黒川さんの熱量と魅力を浴びるには絶好のシリーズ。
ちゃんとした話はこっちを聞きましょう)
材料1:集中力
恥を捨てる為に自分に籠る
何より必要。必要すぎる。集中力を阻害する物は徹底的に排除して下さい。
最近は危ないのであまりやりませんが、学生時代はライブに裸眼で取り組んでいました。近眼すぎて視力0.1も無いのに。
意外とステージ上ってお客さんの顔が見えるのと、集中力を高めて感覚が開いた状態で臨むと、お客さんの表情の機微まで見えてしまって、正直ノイズです。プラスの反応とは限らないので。
やり方は極端ですが、そのくらい意識を現実に引き戻すような要素を取り除きます。
多かれ少なかれ、人前で何かをする行為には恥が伴います。こう言うと疑われるのですが、わたしも実は結構シャイだし、恥ずかしいです。ほんとだってば。
ただ、"人前じゃなければ"大きな声で歌っていても踊っていてもそこまで恥ずかしくないし、"人前じゃなければ"自分の思考や世界に浸ることが出来る人も居るのでは無いでしょうか。人前でやろうと思うから恥じるのです。
この、"人前じゃない状態"をどこでも擬似的に発揮する為に必要なのが、集中力です。「他人がいようが、没頭したい世界と自分の2人きりになるほどの徹底的な集中力」ということです。どちらかと言うと、外に出すより内に籠るイメージです。
多分、人前だからこそ興奮する/憑依型になるタイプも存在する気もしますが、それはまた別の資質や感覚が必要で、誰にでも出来ることでは無いでしょう。
しかし、もし貴方が"人前が恥ずかしい"という、ごく普通の感情由来で自分を表現できないのであれば、"人前"というノイズを除去すれば恥は軽減されるのではないでしょうか。"人前"の状態でなくなる為に自分の中に籠り、他人の目を排除するのです。
とは言え、いくら集中力を阻害するものを排除したところで、そもそもの集中力が低ければ効果は薄いです。
何故わたしが「憑依型」と呼ばれるまでの集中力を身に付けたのかと、近しいことが出来るようになる訓練を簡単に考察します。
5歳から習っていた珠算
わたしは5歳から珠算教室に通っていました。珠算と言うとピンと来ないかもしれないですが、要はそろばん教室です。
商工会の珠算初段、暗算初段、フラッシュ暗算初段、電卓技能検定四段というよく分からない資格と、それなりの量の賞状と、トロフィーを1つ持っています。毎年小さな大会に出ては地方新聞に名前を載せていました。
(余談。「級」は数字が小さいと位が上がり、「段」は数字が大きいと位が上がります)
珠算競技は以下で構成されます。
・見取り算(足し算引き算) 10問×10点
・掛け算 20問×5点
・割り算 20問×5点
計300点満点
制限時間30分
この場合、珠算競技の内容や難易度はさておき、着目したいのは30分の時間の制約です。わたしも高い集中状態を長くは保てません。しかし30分という制約付きなら、強い集中力を保つ能力が備わってると言えます。
HUNTER×HUNTERじゃないですが、制約と誓約が、特に訓練のはじめは重要なのだと思われます。
この場合の制約と誓約は、「30分の時間設定」「目の前の問題に集中し正しく計算機を扱う」「問題を間違えない」。ただそれだけで、クラピカに比べたら単純なものですが、人間は基本的に散漫なので、正しい動きを続けることは意外と大変な誓約です。
また、人間はタイムリミットや目標があった方が全力を出せる傾向にある気がします。
「いつまで続くか分からない全力」と「終わりが見える全力」では、後者の方がブレーキを外しやすいです。単純に、前者ではリソースの分配が見えなくてストレスだからです。
訓練①
最初は短い時間で良いので、自分で制限時間を設け、何かに没頭してその事だけを考え、他の世界を遮断して下さい。遮断と言うと難しいかもしれないですが、まずは没頭するもの以外を見ないようにしましょう。視覚的にも意識的にもです。例えば読書や料理、筋トレ、編み物などの作業はこの訓練に向いています。この段階では、そこまでクリエイティブすぎない作業の方が良いでしょう。
時間設定の目安としては、作業強度が低すぎると訓練にならないので、ちょっと必死になる程度が理想です。自分の普段の作業量に対して、普段の8.5〜9割くらいの時間でやる、くらいが良いでしょう。
それこそ筋トレがイメージしやすいですが、自分がもう無理!やだ!って思った回数+2回くらいの感じです。
これだけでも最初はちょっときついです。ただ、内容は何でも良いのと、時間も短くて良いし、特に最初は精度も気にしなくて良いです。
とにかく、全力を必死に出す瞬間がその短い時間の中に含まれていれば大丈夫です。時間と視点を、対象物や作業に凝縮する感覚です。
材料2:想像力
想像と記憶で感覚を復元する
憑依型の役者の話題でしばしば聞くのは、「憑依型は共感覚的である」ということです。
例えば舞台設定が海であったら、潮の匂いがする、砂浜を踏んでる感じがある、光が水面に反射して眩しい、風が強く感じる、、、などの感覚を覚えるそうです。
これだけ聞くと人間離れした能力に思えるのですが、本当にそうでしょうか?
結論から言うとこの現象は、「強い想像力」と「想像で足りない感覚を補完する五感の記憶を引き出す能力」が高いレベルで噛み合ったものだと考えています。少なくともわたしはそうです。
またHUNTER×HUNTERの話で恐縮ですが、クラピカが鎖を具現化する為のイメージ修行がありました。
(余談。クラピカのコスプレをするのが長年の夢です。厨二病なんで)
この作業こそまさに、想像力の強化と五感の記憶を頭に叩き込むものと言えます。
クラピカの例では鎖で遊ぶ作業をしていますが、なるべく五感に訴えるように記憶に刷り込む作業をしているのが見て取れます。
人間の感覚は「五感」と呼ばれるように、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の5つで構成されます。逆に言えばこの世の現象や物体は、理論上この5種類でしか感じ取ることは出来ないのです。つまり、たった5つのパラメータを追求すれば、五感の記憶を身に付けることになります。
憑依型役者の人間離れしているように見えた現象は、「あなたは海にいる」と言われた時に自分の持つ五感の記憶をどれだけ詳細に引き出せるか、舞台設定と過去に得た感覚をどれだけ結びつけられるかが鍵となってきます。想像と過去の記憶、両方で感覚を復元するのです。人生すべて、コネクティング・ザ・ドッツ。
訓練②
まず、身近にある具体的な「もの」を何か1つ用意・設定しましょう。最初は想像しやすいもの、あるいは手に取れるものが良いです。概念よりは物質、体感できるものにして下さい。
その設定したものの特徴を、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の五感別に列挙していきましょう。列挙の時の言葉は、格好つける必要はありません。でも、抽象的すぎると駄目です。
例えば視覚なら、「赤くて格好良い」ではなく「マツダレッドのように深みのある赤、しかしマット、高貴で格好良い」くらいは最低書きましょう。自分の感性を含んで大丈夫です。こういうコソコソした作業で、己の感性を出すのも訓練の一環です。
そうしていくうちに、赤の中でも「可愛い赤」「格好良い赤」「うるさい赤」「落ち着いた赤」とか、なんとなく違う受け取り方になることが出てきます。そうしたら、ちょっと原因を考えてみましょう。視覚以外の五感が関係してるかもしれないし、対象物へ抱いてる自分の印象、エピソード、文脈、そういうのが関係してるかもしれませんね。そういう個人的な体験、感覚を対象物に繋げていって下さい。
また、訓練②は訓練①と組み合わせても効果的です。訓練①で作業しているもの・ことに対して訓練②を行うのです。こうすると、リアルな手触りや肉体的な感覚を伴いながらの思考訓練ができます。
ただし、訓練②はやりすぎないでください。大体のものに対して五感で説明出来る気がする、くらいでこの訓練はやめましょう。感性を尖らせる必要のある場面だけこの能力を使って下さい。
感性を長い時間開いている状態は、生きづらくなります。
胎教から仕込まれりゃそりゃ出来る
わたしの母はとても教育熱心でした。どっかで聞いたことのある話ですが、わたしは3人兄弟の真ん中で1人だけ胎教でクラシックを聴かされてます。そんなことあるかい。こればっかりは本当です。モーツァルトとベートーヴェンが多かったそうです。
その他、胎教からされていたこととしては絵本の読み聞かせ、美術鑑賞、母との会話あたりでしょうか。「子供だからといってちゃんとしたものを持たせないのは違う」と言って、プラスチックの食器を与えられませんでした。陶器の食器を割ったこともないそうです。
情操教育エピソードを挙げたらキリがないですが、こんな生活を胎教から仕込まれてたら、感性が磨かれないのも変な話です。
加えて、5歳の時には既に言われていたと記憶してる教育方針は「よく見て、よく聞いて、よく考える」でした。刷り込みって怖いもので、あらゆるものに対して「よく見て、よく聞いて、よく考える」を幼い自分なりにやっていた気がします。それは対人だけでなく、身近な現象や物体に対しても。自然と訓練②のようなことをやるに至りました。
母は、わたしが考えたことを報告すると間違っていても馬鹿にするのではなく、道理や過程を踏まえながらどうしてそうなっているのか、きちんと説明してくれる人でした。フィードバックもあった訳ですね。子供って親のフィードバックが嬉くて、どんどんやっちゃうんですよね。だから子供の頃は学校の勉強も日常の不思議も、すごく楽しんでいたように思います。
パーソナルな話はこの辺にしておいて、ちょっとわたしは年季が違います(もちろん胎教以外の資質もあるでしょうが)。
その上で言えることとしては、これが出来る人間は多分マイノリティだということと、めっちゃ疲れるということです。容量(メモリ)のムダ使い♡ってことです。またHUNTER×HUNTERじゃん。この場合、念能力じゃなくて脳味噌の容量ですね。
普通に日常を送ってる人と、五感をフルに使ってる人では、受け取る情報量が違います。たまにわたしが「今、処理落ちしてる」みたいなことを言うのは、情報量と自分の感受性にぶん殴られてる時です。脳内に雪崩れ込んできた情報量全部に同時に訓練②をやって言葉と感情が溢れ返る感じです。混沌すぎる。一応、ある程度遮断出来るのだけど、心の準備が要ります。RAMが頑張ってるので、ちょっとそっとしてあげて下さい。あと、あんまり真似しないでね。みんなは楽に生きてくれ。
(余談。だからわたしは色んなコンテンツを見るのが苦手です。特に映像作品。すげ〜〜〜〜〜疲れる。何かのイベント行っても、脳内の処理が終わって落とし込んで熟成して創作に活かせるまでに3ヶ月はかかる、処理が遅い)
材料3:感受性
心を開くこと、素直であること
表現をやるなら、ある程度の感受性を要するのは想像に難くありません。加えて、感受性を磨くために大切で、簡単に出来ることがあります。いや、最も難しいことかもしれない。それは、素直に心を開いた状態を用意することです。
特に昨今、アーティストや表現者のマインドとして人間性の善さが挙げられるのを見ますが、これはプロデューサーや指導側、その延長でファンの意見を素直に受け止められるかどうかとも関わってきますし、素直さが感受性を助長するものでもあるからだと考えます。
単純に「そもそも他人の話を聞く気がない人」と「とりあえず一旦聞いてみようと思ってる人」なら、後者の方が話を理解して受け入れられる可能性が高いです。これは感性も同じで、どんなに素晴らしい音楽や文学や絵画を提供されても、興味が無いとか自分には理解できないとか偏見とか、最初から決めつけたら入ってくるものも入ってきません。まずは受け皿を作ること、受け皿を作れるほどの余裕を持つことです。
わたしも正直、精神的余裕が常にある人間ではありません。だからこそ、他人の話を全く聞けなくなったり、他人に相談できなくなったら一巻の終わりだ、と肝に銘じています。いつでもそういう視点を持つこと。客観的であること。自分の中にいる別の視点の自分に対して、自分を信じれない時でも、せめて自分が信じられる人に対しての素直さを失わないようにすること。それが出来なくなったら終わりです。
もちろん、何でもかんでも言い分を受け入れろって話ではありません。他人限定の話で言えば、「絶対にこうした方が良い」「今すぐ決定しろ」と判断を急かす、強要する言い方の人間は無視して良いです。何かの契約をする時も同じですが、持ち帰って検討させてくれない人間を信用してはいけません。また、そのような言い方をしてもいけません(耳が痛い。文脈や状況や空気でしちゃう時もあるかもしれない。それはそれで事情をちゃんと伝えましょう。それもまた素直さ)。
なんか説教っぽいし内省モードになってきて嫌だけど、もうちょっとこの話をします。表現をする時の素直さの話。
開いて、もらって、返す
さっきも言いましたが、どんなに素晴らしい音楽や文学や絵画を提供されても、受け皿が無ければ受け取れません。では、素直さがステージでどう働くか。
特に歌だと顕著ですが、その曲の中で述べている感情に自分がなっていないと、その曲の内容は伝わりません。極論、歌詞を多少間違えてもその曲の感情になって一生懸命に伝えれば、大雑把には伝わります。その曲で何を伝えたいか、要旨の抽出と入力・出力が表現の第一歩です。
良い意味で音楽に感化されること。受け止めたものに応えて返すこと。素直に音楽とコミュニケーションをすること。まずは開いてないと、もらえません。これは音楽表現をやるにあたっては必須だと、わたしは思ってます。ステージ上で演奏してる曲以外のことを考えている演者は、観客が見たら結構分かるものです。
そして、こればっかりは訓練も何も無いです。本当に心構えの、人としてのattitude。だからこそわたしは、表現活動は人間性を磨くためにやってるなぁと思います。大袈裟では無くて、全部出るから。ステージで嘘は吐けない。少なくとも、わたしのやり方では。
憑依型にとっての憑依(に見えるもの)
ここまで読んだ人の中には、もう「ひらぐり・ひらりは憑依型だ」と言うには違和感を持つ人もいるかもしれません。何故なら、わたしがやっているのは憑依でも何でも無いのです。強いて言えば、過去の自分の感情を憑依させている。
わたしにとっての憑依(に見えるもの)は、自分が作った大きな音を浴びながら自分の中に迎え入れ、過去の自分と現在の自分を行き来し、今まで味わった感情の引き出しを片っ端から引っ張り出して、表に出す作業なのです。それは自分の人生と、得た感情のすべてを肯定する作業とも言えます。
普段のわたしは、自己肯定感がとんでもなく低く、生きてるのが申し訳ないような心持ちで過ごしています。心の壁も薄くて他人の影響を受けやすい。多分、他人が思うより更に。そもそも、何故わたしの自己肯定感があまりに低いのか。
わたしのステージングを目の前で見たことがある人なら、少しは分かるでしょう。
あれだけのエネルギーと感情と声量を、日常で、特に対人で、出すことを許される場面なんか、ありますか?
きっと首肯できる人は居ないでしょう。だからこそわたしは、日常で自分の存在を許せないのです。あんなことを他人にして良い訳がない。あんな熱量を表に出して良い訳がない。もっと言えば、あんな感情や質量を持っていて良い訳がない。だけど、いつも溢れかえって持て余してる自分は事実そこに居る。行き場がない。常に我慢して抑制しきっている。その状態を評価されても全然嬉しくない。「いつも我慢しててえらいね」って馬鹿にされてるようにさえ思います。
ただ、憑依(に見えるもの)をステージでやるわたしは、驚くほど輝けます。普段苦しむマイナス面がライブハウスの爆音の中では全部裏返って武器になり、男にも女にも、若年にも壮年にもなれるのです。その上、技量を磨いていけば、誰かの感情を揺らすことや、希望になる可能性すらあるのです。こんなに自分の資質や生き方が肯定されることはありません。セットリストの中で、自分の感情と声をくるくる変え続けて、人生の悲喜交々を、けして長いとは言えない時間の中に凝縮するのが楽しくて仕方ない。
たとえどんなにボロボロでも、舞台の上でだけはわたしは磨き上げカッティングされ尽くした宝石なのです。あれが本当のわたしです。
残念なことに今はライブの予定が特に無いのですが、いつか本当のわたしに会いに来て下さい。わたしも貴方の心に会いたいです。ちゃんと殴り合いましょう。
音民鯖、ありがとう
こっから音民鯖の話できる〜!?って思ったけどちょっとだけします。
音民鯖に入って友達がいっぱい増えました。この言い方でこの記事タイトルだと宗教勧誘感あるな?待って?そんなつもりは無いです。マジで。でも本当に、友達が増えました。みんな優しくてあったかいです。えへへ。
正直な話、去年なんだかんだで田舎から関東に出てきてめっっっっっちゃバカほど大変だったんですが、音民鯖が無かったらもっと寂しい辛い思いをしていたと思います。
まず、会いたいと思える人が行ける範囲に居たり、Discordを開いたら程よい距離感で仲良くしてくれる方が沢山いる状態に助けられました。
音民鯖は、パーソナリティのお二方が創作や演奏をする方なこともあり、実際に創作活動されてる方・されてた方、かつ知的好奇心が旺盛な方が活発に交流してて、他のゆる界隈のサポコミュとはまた雰囲気が違うのが面白いところです。音民鯖がきっかけで創作をしてみたい、再開してみたいと仰る方もいる程です。お互いに面白おかしく真面目に意欲を刺激し合える場になってると思います。ファンアートにファンアートが出来る場所って、そんなに無いでしょ?
(余談。謎ミームがめっちゃ多いのも壁のクリエイティビティが高いからじゃないかなぁ。作ろうとしたら手が動いちゃう人が多い)
有難いことに、わたしが作ったものが好きと言って下さる方も何人か居て、すごく嬉しいです。インターネットのある時代に生まれて良かった。
来年もみんなと一緒に遊べたら嬉しいなぁ。
そんな感じで今日のアドカレはおしまいです!
最後までありがとうございました、Very merry Unbirthday to you❤️
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