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塔が立ち並ぶ摩天楼、中世のマンハッタン
ローマ時代にフィレンツェを守るため、トスカーナを流れるエルサ川の渓谷を見下ろす、標高324mの丘に2基の城が建設されました。
998年頃に城壁を巡らせた都市となり、フィレンツェとローマを結ぶフランチジェーナ街道の要衝になると、ローマのバチカンを訪れる巡礼者の中継地として繁栄します。
フィレンツェの南56kmに位置するトスカーナ州に、まるで時計の針が止まったかのような中世都市があります。
1990年に世界文化遺産に登録された
サン・ジミニャーノ歴史地区
都市名、サン・ジミニャーノの由来は、モデナの司教である聖ジミニャーノがこの地で亡くなり、遺物である指と指輪が安置されたことから、450年サン・ジミニャーノと命名されました。
もともとヴォルテラ司教の管轄であったサン・ジミニャーノは、1150年コムーネ(自治体の最小単位)として成立。それにより11世紀頃から築かれ始めた、三角形のチステルナ広場や大聖堂と隣接しているドゥオモ広場の周辺に高い塔を備えたタワー・ハウス建設に、より一層拍車がかかります。
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というのも、サン・ジミニャーノでは、教皇派のアルディンゲッリ家と神聖ローマ帝国の皇帝を支持するサルブッチ家が支配しており、争いが絶えなかったと言われてます。お互い富と権力を競い合うように、その象徴として、塔を備えたタワー・ハウスが建設され、過度な競い合いはとうとう、1255年、議会による高い塔を立てる事を禁ずる「建築制限」が制定されるまでになります。
中世のイタリアでは、城壁の内側の限られたスペースを活かすため、塔建築が発達したと言われるが、何しろ当時は権力闘争の激化で70m級の塔が72基も、要塞のように堅固に築かれるようになったのですから、規制をかけざるを得なかったのでしょう。
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そのうち14基の塔が、現在でも変わらない風貌でそびえ立ってます。
13世紀以降に整備された全長約2.2kmの城壁の内側に展開する、世界遺産に登録された歴史地区と共に。
・アルディンゲッリ塔
・ベッチ塔
・ディアヴォロ塔
・ロニョーサ塔
・グロッサ塔
・サルブッチ塔
・チギ塔
・コッレジャータ鐘楼(大聖堂鐘楼)
・クニャネージ塔
・カンバテッリ塔
・ペッティーニ塔
・ペショリーニ塔
・フィチェレッリ塔
・パラッツォ・ベッラリ塔
塔の他には、
・サン・ジミニャーノ大聖堂
(正式名称:コッレジャータ・ディ・サンタ・マリア・アッスンタ聖堂)
・ポポロ宮殿(現市庁舎)
等も、世界遺産の構成資産になってます。
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また、建築物以外でも大聖堂に描かれた
タッデーオ・ディ・バルトーロの「最後の審判」、「天国と地獄」
ベノッツォ・ゴッツォーリの「聖セバスチャンの受難」
ドメニコ・ギルランダイオの「受胎告知」
等のフレスコ画も構成資産に含まれています。
チステルナ広場とドゥオモ広場の二つの広場を囲むように形成、発展したきた、サン・ジミニャーノは、14世紀半ばになると、「ペストの流行」により人口激減、1353年フィレンツェに支配されるようになり、長い繁栄に幕を閉じることになります。
城壁内に展開する中世の街並みから突き出している14基の塔は、約670年もの間、時計の針を止めながら、ペストによる教訓とパンデミックを乗り越える勇気を、現代の我々に伝えようとしているのかもしれませんね!
「美しき塔の町サン・ジミニャーノ」より
![](https://assets.st-note.com/img/1646706705703-Z9HKgG58xZ.jpg?width=1200)
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