他人の基準で、自分を嫌いになることはない
仕事、結婚、将来が絡んでくると途端にネガティブになってしまう。
この思考のクセはなにがトリガーになっているのかを探していた時、学生時代に言われた言葉を思い出した。
「生産性のないやつに価値はない」
今の自分はどうだろうか。
30代になっても出産経験もないどころか結婚の予定すらない。
そしていつまでも平社員で、出世や役職は望めない。
精神的に脆い。
現実を思い返すたびに、
「ええ、そうですよ。
女性としても、社会人としても、
なにも生み出して無いわたしは価値のない人間なんですよ」
と吐き捨て、
「この言葉さえなければ、こんな気持ちにならないのに。お前のせいだ。」
いない相手に恨みをぶつける。
まさにわたしにとって呪いの言葉だった。
でも、ちょっと待って。
その呪いをかけたのは本当にその人か?
当時のわたしは、その言葉にどんな気持ちになった?
人生で何もかもが順風満帆だった高校生の頃。
家族があつまった夕食で、社会人になりたての兄が仕事の話でぽろっとこぼした言葉だった。
吐き捨てられたその言葉には、苛立ちや侮蔑が込められていたように思う。
そんな言葉に兄を尊敬していたわたしが思ったのは。
「お兄ちゃんがいうのだから、そうなんだ。」
これよ、これ。
そのとき納得した高校生のわたしが、理想通りにいかなかった現在のわたしを責めているんだ。
兄の言葉のせいじゃない。ましてや兄のせいでもない。
(そもそもこの言葉自体、兄がわたしに向けて言ったわけでもない)
なんてこったい。
まさか、自分で自分に「こうあるべき」と呪いをかけておいて、悲しくなると兄のせいにしていた。
とんだクズだ。わたし。ごめん、兄。
さて…
改めて聞いてみよう。
「わたしは、価値のない人間なんだろうか。生産性のない人間なんだろうか」
わからない。でも、違うと思う。
仕事ができなくても、こどもを産まなくても、わたしの存在価値が決まるものじゃない。それは、そのひとの基準で決められたものであって、わたしを束縛するものでもない。
他人の価値基準で判断して、自分で自分を否定するのは滑稽極まりない。
そもそも“価値”て、人の存在につけるものではないとおもう。
そんなことを考えていたら、
「わたしに価値はない」と思い込みたい思考のクセが、ようやく外れた気がした。
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【きっかけメモ】
結婚、出産しないのなら出世してお金たくさんもらって消費して社会に還元しなきゃ!
(でなきゃ独身のわたしに価値がない)
なんて、思い込んだた時がある。
兄の言葉「生産性のない奴に価値はない」て言葉に、
そうかもしれない と納得してしまったから。
自分の首を、自分で締めてた。
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