笑い飯哲夫のサタデー・ナイト仏教まとめ(2020年6月・釈徹宗住職)
「笑い飯哲夫のサタデー・ナイト仏教」シーズン4のまとめシリーズ第2回です。
2020年4月から始まったシーズン4は毎月ゲストがいらっしゃるのですが偶数月は僧侶の方、奇数月は芸人さんやタレントさんが登場します。
このnoteでは僧侶の方が登場する偶数月をまとめていきたいと思っています。(奇数月でも場合によっては書くかもしれません。ていうかいつまでこの記事を書けるのかわりませんが・・・)
(※この記事は非公式で個人的に勝手にまとめたものです。問題があればご連絡をいただければ対処いたします。)
さて今回は・・・
2020年6月 マンスリーゲスト
浄土真宗本願寺派 如来寺 釈徹宗住職
【6/6放送】
<一分間のフリースタイル説法>
「柔軟心(にゅうなんしん)」
阿弥陀様の48の願い(無量寿経)の33番目に「触光柔軟(そっこうにゅうなん)」というのがありまして、仏様の光に照らされると身も心も柔らかくなるという教えがあります。
軟らかくなるとそれまでの自分が、なんて頑なだったんだろうというのが見えてきたりします。この頑な心、委縮した心というのはついつい排他的になったり攻撃的になったりします。
コロナウィルスの感染も怖いですが委縮した心の感染も怖いと思います。
仏教の教えに出会って心を軟らかくしてもらえるといいと思います。
【6/13放送】
<一分間のフリースタイル説法>
先に逝かれたの方を偲び、先に逝かれた思いや願いに耳を澄ます、目を凝らす。あるいは先に逝かれた方の目を意識しながら暮らす。
これは人間にとって大事なことで、仏教、キリスト教など宗教、宗派をこえて、人間として大切な態度だと思います。
もしあの方がここにおられたら何を言うだろう。どんな行為をするだろうとそんなふうに、なくなった方を通して日常を見るだけで随分世界は変わってって見えるように思うのです。亡くなった方を意識しながら暮らすというふうに思いを馳せていただければと思います。
【6/20放送】
<一分間のフリースタイル説法>
仏教の教えというのはよく鏡に例えられます。
仏法という鏡はわたしの真実の姿を見事にありのままに映し出してくれます。
普通の鏡は外見しか映しませんが、仏法の鏡はわたしの内面とか行いも全て映すといいます。
仏教は2500年以上にわたって丹念に丹念を重ねてきた見事な鏡という気もします。
自分のことはなかなか自覚できませんので、自分の生き方が逸れてないか、自分の考えが歪んでないかというのを常に仏教の鏡に照らし合わせて点検しながら暮らす。そんなイメージで仏法を聴聞するのはいかがでしょうか。
【6/27放送】
<一分間のフリースタイル説法>
「鏡のような心を目指す」
鏡は対象物をそのまま映しますが、我々の心はそうはいかずに、自分の都合というフィルターを通しますので、その対象物に変な色つけたり、歪んで映したりとか、異様に大きく映したり、小さく映したり、きちっと映すことがなかなかできない。
だから鏡のような心をめざして、対象物をそのまま映すんだと。
認知の歪み、認識の歪みは必ず苦しみを発生させます。
鏡は対象物が去ってしまえば何も映らないんですが、我々の心はもうとっくにそのことは過ぎ去っているのにずっと映し続けて苦しむということになりってしまいます。
それがあれば映すし、過ぎ去れば映さない。そのような鏡の心をイメージするのはどうでしょう。
(感想)
最後の「鏡のはなし」面白いですね。
このように自分を見つめることはなかなか無いと改めて感じました。
釈徹宗さんの本は何冊か読んだことがありますが、仏教の各宗派はもちろん、他の世界の宗教のことなど本当に知識が豊富で面白いです。そして決して偉ぶらず柔かい物腰が魅力だったりします。
番組内でも哲夫さんとのやりとりもいろんな知識や見解が披露されていますが時間が短いなと感じます。またゲスト出演して欲しいですね。
番組でも紹介されていますが哲夫さんは釈徹宗さんとの対談本(正式には往復書簡)「みんな、忙しすぎませんかね?」を発行されています。
※ちなみに僕が書いたこの本のレビュー記事はこちら↓
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