「考えること」の価値を伝える
大阪で、研究時代の友人と会っていた。惜しげもなく披露してくれる研究話に圧倒され、壁を一ミリずつでも掘り進んでいこうとする、知の研鑽を感じた。その熱量に、じわりじわりと、肌を焼かれているような感覚。自らの方向性が正しいことを再認識しつつも、自分が考えることを放棄してきたことを突きつけられている。
◇「考える」理由
「考えること」というか、「哲学的対話」の価値について問われた。
僕は「考えること」は、大仰なことではないと思っている。内省を通して、世界の見方が少しでも変われば「いい」。
では、これは、「LSDをキメてラリる」のと何が違うのか?正直、「そんなもの、自己満足でしかない」という地平からしか飛び立てないのだが、ふらふらと検討してみたい。
質問されたことにまず答えていこうと思う。
一つは、質問されたときに返したが、侵害性の違いが大きいと思っている。薬物によって、”思考の範囲”を超えてラリるのと、考えることを通して(思考の範囲内で)ラリるのでは、身体への侵害性が違う。「考える」ということで、依存するまで、身体を壊すまで、気持ちよくぶっ飛べる人は、稀であろうと思う。この身体への影響度が、考えることのほうが「健全」であろう。さらに言えば、薬物の場合、「判断能力」が落ちる可能性もある。
もう一つは、応用性の違い。考えることで得た世界認識は、往々にして法則性につながる(と思っている)。思い悩むことは、思考をループさせ、いつまでも同じ考えから逃れないが、「考えること」は、少しずつでも違う地点に行きつこうとする。その中で「裏」や「逆」や「例外」にたどり着き、それでも共通する「何か」を見出していく。
このように得られた「何か」は「法則性」と言え、法則性は生きる上での思考・判断・行動の基準となりうる。「リンゴはなぜ落ちるのか?」という思考をもとに、「万有引力の法則」が発見され、さまざまな現象の理解に使われてきた。LSDでのトリップによって、そこまで明晰に法則性をつかめるとは考えにくい(といっても、やったことないのでわからないけど)。「考えること」を行えば、なんらかの法則性に近づけると思っている。そして、それは「考えた人」を少しでも生きやすくする(はず)。
と、もっともらしいことを並べているが、最後は好みの問題というしかない。鶏肉も牛肉も両方うまいけど、僕は鶏肉のほうが好き。LSDと考えることは「気持ちよさ」では同じかもしれないけど、僕は考えることのほうが今のところは好きだ。そういう、個人的な理由によっている。
◇「気持ちよさ」について
さて、彼からの質問を超えてもう少し検討を重ねれば、「気持ちよさ」でいうならば何も違法性の高いLSDと比べる必要はないことに気づく。
セックス(まあ、もっと言えばオナニー)やジョギングと何が違うのか?を考えても、彼の「自己満足ではないのか?」という問いに対する状況は成り立つ。「気持ちよさ」を考えるだけならその構造に差はないからだ。セックスもジョギングも、気持ちいい人は気持ちいいだろう。彼らにも同じ質問をしてみてもいいかもしれない。「なぜ、その行為をするのですか?分かるように説明してください」。
おそらく、「何が気持ちいいか」を答えられる人は多くても、「何でやるのか」を答えられる人は少ないかもしれない。考えることも同じでは?僕はセックスやジョギングよりも、考えることが好き、ということが単なる理由だ。
結局、「なぜそれをやるのか?」という問いに対して「自己満足である」という前提は、よろよろと検討してみたが、やっぱり変わらないようだ。野球やろうぜ!って言ったとして、どれだけの人が「なぜ野球をやるのか?」について理由を語れるだろうか。「磯野!野球やろうぜ!」でいい次元でもある。「磯野!考えてみようぜ!」で、いい(と思う)。
「なぜ、その行為をするのか?」という問いはとてつもなく答えるのが難しいが、問いを「なんのためにやっているのか?」や「何が楽しくてやっているのか?」にずらすことで、見えてくるものありそうだ。これは、後段に検討していきたい。
◇場を作る理由
では、「考えること」の価値を一旦置いて、考えることを複数人の対話を通して行う哲学的対話の価値とは何かを次に検討していこう。
簡単に言えば、知的エンターテイメントだと思っている。推理小説やパズルのように、課題・問題について状況を確認し、整理し、仮設を立て、論理を突き詰める。単純にそれが「楽しい」と思っているからやる。先程の例で言えば、野球をするのと同じ。
ならば、哲学的対話の場を用意するとは、暴力的に言い換えれば「野球場をつくる」のと同じかもしれない。野球場はなぜ必要か?
広いスペースがなければ、野球はできない。狭いスペースでも工夫すればできるが、広いほうがもっといい。ボールが飛んていかないようにフェンスがあればさらにいい。ピッチャーマウンドやベースが整備されてると、最高だ。土と芝生が整備されているフィールドは、心地よい。ドームになれば天候にも左右されない。
野球というルールに沿ったフィールドがあることで、私たちはのびのびと野球を楽しむことができる。草野球でも、プロ野球でも野球の「楽しさ」は変わらないかもしれないが、野球の「質」は変わりうる。
哲学的対話も同じように考えてみる。
僕が、場を持つ際には、参加者に3つまずルールを伝える。
①ここは”俗世”とは切り離されている。ここでの発言は関係性を引きずらないように。
②意見を否定したり、闘わせて勝ち負けをつける場ではない。あくまでも「そういう意見がある」という立場で受け止めて。
③モヤモヤしているものがさらにモヤモヤして帰りましょう。答えを見つける場でもありません。
これは、野球でいう「ルール」と同様。
てつがくカフェの開催場所はなるべく静かな場で 人通りがない、安心しやすい場所を選ぶ。参加者に車座になってもらう。お茶やお菓子をセットし、ホワイトボードの前に立てば準備完了だ。気温も調整し、快適な空間を創り出すことに気を付ける。
これで、「野球場」を整備することができる。
これらの工夫は、発言が日常生活で規定されている思考の範囲から抜け出すためのルールであり、フィールドである。「物を棒で殴ってはいけません」という日常規定から、「投げられたボールをバットで打つ」というルールの導入によって抜け出すように、哲学的対話の場も、日常からの脱却、ルールが存在する。
ここまで考えてみれば、「哲学的対話の価値」を説明してい方向性がわかる。その「面白さ」を伝えていくのだ。気づきを得る瞬間、「自分なりの仮説を立て、それを行動して確かめ、合っていた時の喜び」の楽しさを追求する方向。だから、体験してもらう。そして、体験してもらうならばできるだけ整備されたフィールドが気持ちい。いわゆる普及・啓蒙活動ともいえる。
「哲学的対話」の場を作るとは、いうなれば「野球場」を用意して、「野球」をやる機会を用意して、「野球」をまず体験してもらって、「野球」って面白い!と思ってもらうことである(「野球」を「哲学的思考」に変えてください)。
◇そもそも「考えること」の価値を伝えるには
難問である。私からすると「自明」であっても、考えることになじみのない人にどうやって「価値」を共有すればいいのだろうか?
僕は、「考えること」と「運動すること」はアナロジーとして使えると思っている。なので、「考えることをもっと楽しもうよ!」と言ったところで、「ウォーキングをもっと楽しもうよ!」と進めていくのと同じぐらいの難易度があると思っている。
ウォーキングは、健康に良い。適度な負荷は血行をよくし、筋力をつけ、免疫力を高める。肥満を抑制し、なおかつリフレッシュした気分になれる。軽い運動は頭脳労働の効率も上げるという結果もどこかでみたことがある。
ウォーキングの価値など、自明である。言葉ではいくらでも説明できる。しかし、世界はウォーカーであふれることは今のところない。
考えることも同じだと、僕は思う。すでにこの文章を読んでいるときは「考えて」いるし、「考えて」いないで人間社会を生きられる人がいるならば、ぜひお目にかかりたい。すべての消費活動も、生産活動も、そもそも活動する際にどこかで「考えて」いるからだ。
より「考える」ことや面倒くさいことを「考える」ことは、ウォーキングを普及しきれないのと同じぐらい難易度が高いと思う。誰だって、日常生活の中で「歩く」(もちろん、特殊な事情のある方を除く)。しかし、さらに「歩く」ことは面倒くさいのだ。
「歩く」ことが面倒くさい人間に、どうやったら「歩く」ことの楽しさを伝えられるだろうか?
嫌がる馬を引っ張っても、水は飲まない。では、どうやって飲んでもらうのか?
◇すべては宗教。では、それを超えるために?
ここで、考えたいのは、「ある信念をもつこと」を僕は広義の宗教とみなしている。だから、だれもが「宗教」を持っていると思う。説明に使う程度や頻度に違いがあり、あるところでいわゆる狭義の「宗教」になるのだと思っている。
世界の成り立ちは「神である」ということを規矩にして世界を測れば、それはその「神」を信じている「宗教」であるということである。科学と宗教が対比されがちなので、誤解されがちだが、僕個人としては「物理的客観性をもった世界が存在し、その裏には法則性があり、その再現性を担保することで”正しい”と判断できる」という教義をもった「宗教」であるとしても、「構造」は変わらないと思っている(あくまでも、「何かを信じている」という構造その1点のみで論じている暴力的なものであるが)。
話がそれたが、要は、「ソフトな宗教勧誘」をしなければならない。これが一番面倒くさいし、気が滅入る。そして、「価値など言葉で説明できない!」とぶん投げたくなる衝動が沸き起こってくるポイントでもある。
ハードな宗教勧誘とは、強制的に教え込んだり、無理やり引っ張ったり、だましたり、脅したり、本人の自発性の無視から始まる。
対して「ソフトな宗教勧誘」とは、本人の自覚から始まるのだろう。「自分の世界に足りない何か」への自覚が引き金となる。いわゆる「好奇心」や「知的欲求」に当たる。
さらに、「上品な宗教勧誘」と「下品な宗教勧誘」も分けられると思っている。品の良さとは、すなわち「相手への侵害の少なさ」に表れる。もうちょっとポジティブにいいかえれば「相手への尊重」だろう。上品な宗教勧誘はなかなか想像がつきにくいが、下品な宗教勧誘の対比として考えてみよう。
下品な宗教勧誘とは一言でいえば、「あんた、地獄に落ちるよ」である。「うちの宗教を信じれば、救われるよ」という殺し文句をささやくことだ。対して、上品な宗教勧誘は、「こんなのあるけど、信じるも信じないもどうぞご自由に」と言える。これぐらい丁寧に行えば、「宗教」と言われても痛くもかゆくもない。
◇のどが渇いている馬を探す/のどが渇いている感覚に自覚してもらう
再度、質問に戻ろう。
「哲学的対話」の価値を伝えるには?
馬に水を飲んでもらうには?
渇いていることに自覚してもらうのが一番である。
では、「哲学的対話」の価値に気づいてほしい人は、なにに「渇いている」のか?
前述の「何に気持ちよさを感じるのか?」を紐解いていくと見えてきそうだ。
1つ、かけた情報を集めたとき。
1つ、仮説を確かめたとき。
1つ、未知のものに出会ったとき。
1つ、法則性を見つけたとき。
1つ、世界を説明する物語を手に入れたとき。
そのときに、僕は「気持ちよさ」を感じる。
なれば、その「気持ちよさ」に「渇いている人」に来てもらえればいい。
「哲学的対話」の「価値」とは、すなわち人の「知的欲求の渇望」にこたえる一つの手段であろう。
揺さぶり、ささやき、観察し、話し、生きていることへの問いをさらに深めていく。
それが、僕の「考える」「哲学的対話」の「価値」なのである。