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わるもの

外国に住んでいるとこちらに在住の日本人と関わりを持つことがある。

自分のように学生という身分で留学にきている場合、と、たまたまパートナーができてしまったがために日本に戻るきっかけを失った、という場合を除くと、ある程度の年齢で外国で暮らしている日本人というのはけっこう変わっていたりする。

明らかに住みやすい国であればまた話は変わるが、私の今いるイタリアにおいては、日本での暮らしに違和感や居心地の悪さを感じて、仕事を辞めたりして、思い切って来てしまったなんていうケースが多い。

日本人だから、と思って知った気になって関わっていると、え、本当に日本人?と疑いたくなるような行動をしたりする人がいるから余計にびっくりする。そして、日本人同士だからなんだかそれをはっきり言うこともできず、なんかちょっと気まずくなる。

以前、在住の日本人から誘われたご飯会で、ひとりの日本人とはじめて会うことがあった。私よりも一回りほど上の在住の男の人だった。ご飯会の主催の人から、私がその人と待ち合わせをして行くと伝えたら、本当に大丈夫?と何度か念入りに確認をされたのだったけど、それが伏線のように駅の待ち合わせのところにいたそのおじさんは、確かにちょっと変わっていそうな雰囲気がした。

二人でいるのにほぼこちらが口を挟む余裕がないくらいに喋りに勢いがかかっていて、相槌を打つのが難しかった。喋るの難しいなあと思いつつも、とにかく新たな出会いが嬉しい、イタリアに来たことは奇跡だ、というような話を繰り返ししていて、私はそれはよかったです、ありがたいです、とゆっくり頷きながら話を聞いたりした。でも、本当にそれはよかったとありがたいと思うことだったし、一回りも上の男の人がこんなにも正直に真っ直ぐに自分の人生を話してくれるのはそんなに悪い気もしなかった。

帰りも私は同じ家の方向だったために、その人と同じ電車で帰ることになった。明らかにおじさんは飲みすぎていた。食事会の間、自分の過去の忘れられない恋愛話を語ったりしていて、ほんとまっすぐな人だよね、と周りの人は言って笑っていたけど、彼に引いている空気があるのは明らかだった。私はそれを見て、さすがにこれはキツイなと内心思った。常識的に考えて、常識的にわきまえたら、私の中で浮かんでいたのはそういったもので始まるフレーズばかりだった。

数日後にあった留学中の友人に、とんだ災難にあったんだよ、とその人のことをネタのように話した。すると友人も、おじさんのことを知っていて、その人学校でも有名な変な人だよ、と返した。私は気付けば、その友達に、その人がいかに常識のない行動をしていたか、半分なぜか怒りながら「こんなの、大の大人が有り得なくない?!」と訴えていた。

数日経って、その人からメッセージがきた。行きの電車の時に、今度一緒にワインを飲みましょう!と流れで誘われた一件を本当に実現しようとしているようだった。私は、それを無視した。それから長らく、私はその一件について何度か振り返ったり、考えたりしていた。



年末、友人がイタリアに遊びに来てくれて、お互いの幼少期の頃のことを話したりしていた時に、友達とうまく馴染めなくて辛かった小学生時代のことを思い出した。その時に助けてくれたある女の子は学年でも有名な嫌われものの、友達のいない、変わった子だった。確かに、普通に考えたらおかしいことをしていたり、変だと思えることはあったけど、私に向けてくれた優しさは優しさだったわけで、そこでは間違いなく、変な子なんかじゃなくただの優しい子だった。あのおじさんのことを思い出した。

その人に連絡を返さなかったことを、今でもすこし悔やんでいる。飲みに行くくらい、私にとったらなんてことなかったのにな。行かないとしても、何かしらメッセージを送ってもよかった。無視をするのってよくなかった、と思う。

確かに日本でこのことが起きていたら、常識とかそういうことが言われても仕方ないのかもしれない。でも、わざわざ他の国に来てまで、日本人的な「大人なら」とか「普通なら」という物差しでその人をジャッジする必要はなかったんじゃないか。周りの空気を勝手に読んで、誰かの言った印象をそのまま受け取って。誰よりも常識に囚われていたのは、彼を「変な人」にさせていたのは、他でもない「私」だったのではないか。変な人、と呼ばれる人を、本当の「変な人」にしてしまうかどうかはひとりで考えればいいことなのに。そういう凝り固まった価値観をゆるめたい、というのも留学にきた一つの理由だったのに。人間が変わるのはなかなか難しい。私にはもっと、自分の言葉で考えることが必要だと思う。

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