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基準の効果、対応者と野心家
はじめに
友だちとの話題から発展しました。
85点は論外か?
友だちとの話題である。
その友だちをAさんとするが、前提、彼女は中学でも高校でも常に学年3位くらいにいるような人間で、対して僕は得意教科以外は大したこともないような成績だった。なので、僕から見たら彼女はすごく努力家で優秀なわけだ。
そんなAさんと中学時代のことを話しているときに抱いた違和感が、「Aさんはテストを減点方式で考えている」ということだった。
「100点基準で、1問ミスった分点数が減る」「95点は5点失っているし、90点なら10点も失っている」というセリフを聞き、なんてストイックなんだろうと思った。
対して僕は「70点がだいたい基準で、80点で御の字、90点なら唯我独尊」という始末。
しかし思い返せば、別の友達Bさんが435点/500点という点数を取っていたとき、僕は「高すぎる」と感じていて、逆に僕が370点だと聞いたBさんは「あれ、そんなもんか」と調子が狂った顔をしていた。
今考えるとおそらくBさんは「85点くらいが基準」だったのだろうと思う。だとすると「435点でギリギリよくやった方」なわけだ。大して僕は「70点が基準」。
470点とか取っていたAさんは、まさしく「100点が基準」でやっとその領域を保てていたのだろうと思う。
まあ彼女とも話したが、経験があるからそれを基準値にできる、ということでもあるんだが。
基準という概念
ここでまとめると、各人が違っていたのは、「基準」だと思う。
「自分にとってはこれが普通」という基準。それが70点なのか、85点なのか、100点なのかで、見える景色が変わり、「自分にとってこれくらい努力するのが普通」という目標基準や努力基準にも影響があるんだと思う。
コンフォートゾーン=落ち着く範囲という概念とも近い。95点以下なんて取ってしまったらヤバいと思うのか、80点以上なら安心だと思うのか=95点以上なんて取ったら運が良すぎたとさえ思うかもしれない。
そこを普通と考えて動くものが「基準」であるとする。
近いものとしては、「目標」とは違う。
「できないと思うかもしれないけれど、目標は高く置こう」というのと似ているが、基準はそれよりも前の段階で、「(まあ今回もこれくらい高いとして、、)」とわざわざ言葉にせずにそれをフレームワークに考えているものである。
高い基準を持っていると、高い結果が出ることになる。
毎度思い出す必要がある「目標」に対して、日常に溶け込んでいるから24時間その基準のために動けるし、それを下回りそうな時には当然のようにがんばれる、しかも成し遂げなければいけない「義務」と違い普通のことだと認識しているのでさほどその努力は苦痛でない。のだと思う。
政治が行う人々の誘導には段階があるという話がある。
その段階は「強制」から「何もしない」まであるのだが、「誘因(褒美)の設置」と「情報の提供」との間に「標準の変更」がある。マックで単品を通常価格として大きく表示するか、セットを通常価格として大きく表示するか、みたいなことである。
それだけ、人にとって「何が基準=デフォルトなのか」ということは行動を決定づける要素なのである。
対応者と野心家
基準の効果については十分として、問題はどこを基準に置くかである。
まあ多くの人が色々競争をしているし、何らかの理想や目標を持っているから、それについて考える。競争をしないとか、ありのままを受け入れるのも大事だが、ここではどこかに基準を置いて思考しているとしよう。
先ほどのテストの話をする。
当時学年には、とても努力家な別のCさんがいた。Cさんは、自ら医者になりたいと強く思っていて、学外を含めて相当頭が良かった。Aさんと同じランク帯である。
Aさんは、その人と競争していたわけである。ある意味その人を基準にして、その人に負けないようにしていたとも言える。まあ、僕は「あの人はすごいよなぁ」なんて、まるで勝負することも視野に入れていなかったから、やはりここにも基準をどこに置くかの違いが出ている。
しかしこの2人には大きく違いがある。簡潔に言うと、他の場所でも同じ基準を設けているか?である。
おそらく、Aさんは、Cさんがいなくて、そもそも学年の人が誰も高い点数を取っていなければ、おそらく大して高い基準を掲げず、それなりの点数を取っていただろう。Aさんには夢があったわけではなく、1位を取れないのを回避するという、防御で取り組んでいたからだ。
対してCさんは、自ら進んで、どれだけでも高い基準を持っていた。それは、Cさんが優秀な医者になりたいとほとんど青天井に願っていたからであろう。
Cさんは、外部の環境に関わらず高い位置に基準を置いている、これを野心家と考える。
対して、Aさんは受け身であり、Cさんの影響を受けているから対応者であると考える。
これは競争に限らない。
クビになるとかフラれるとか、そういう危険なことがあるときのみ行動するのは対応者であり、関係なくグングン何かを目指すのが野心家である。
なので、似た「高い基準を持つ人」でも、自分で高くできる野心家タイプと、周りに合わせて高くする対応者タイプがいるのだと思う。
おわりに
基準を高くし、それが普通であると思うようにしたい。
そして僕は、危機迫ったときに一旦大丈夫になるところまで頑張る対応者ではなく、いつでも自分の最大限を行おうと思うような野心家でありたい。
・どこを基準としてそれよりできないとヤバい・それよりできていると安心と感じるか、という概念を考えると、それに合わせて結果も変わる。目標や義務よりも身に沁みついて効果を出すものだと思う。
・基準を高く持っている人の中にも、自ら基準を高く持って行動できる野心家タイプと、周りの人や訪れた危機に応じて高い基準を持ち出す対応者タイプがいると思う。