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違国日記を観て。

5ヶ月ほど前になるけれど、映画「違国日記」を観た。レビューというよりは、映画を見て思ったこと・自分についての言及をする。


あらすじ

中学3年の冬、田汲朝(たくみ あさ)は両親を突然の交通事故で失い、葬儀の場で彼女の両親の葬式の最中に、彼女が実里の実子ではないなどと無神経な話をする親族からたらい回しにされそうになっていた。その様子を見かねた叔母の高代槙生(こうだい まきお)が朝を引き取ることになる。

朝はマンションで一人暮らしの少女小説家・槙生と暮らし始める。人見知りで不器用な槙生は朝とのいきなりの同居に戸惑うが、朝の方は槙生のことを大人だか子どもだか分からない「へんな人」だと思いながらも、槇生との新たな生活に溶け込んでいく。朝は、翌春に高校に入学。槙生との共同生活の中で、思春期を過ごしていく。

Wikipedia

所感

私は槙生に、どこか共感できるところがありつつ、それでもどこか分からないところを見つけながら、作品から得られる気づきに浸りながら楽しんだ。
私から見て、槙生は「何か」という抽象的な概念と想いと決意を持ちながら強く脆く生きているように見えた。
作品の中でその「何か」が明瞭に表現されることはないように見えたが、彼女はその存在性を確信し、なんなら彼女は言語化さえしているが表出しないというスタンスを取り続けているのではないかと思った。そのスタンスでその「何か」を守っているようにも見える。

私の中にも(今はまだ)何とも表現できない「何か」が存在していて、そのは「何か」は私が生きる上でのヒントであるように思う。

「何か」を守りつつも、その「何か」に苦しめられて行きづらさを感じている槙生が描かれているシーンもあった。
そう考えると、私も「何か」に苦しめられて生きづらさを感じていることになる。

この作品では、何種類もの苦しみを癒すシーンもあった。それを観て私も次のような癒しを求めた。
私もどこかに行きたいし、ゆっくり考えながら過ごしたいし、孤独になりたいけど人の温かみを感じたい。そんなように私も私を癒したい。

刺さったところ

あるシーンがとても印象に残っている。
サイン会の後のシーンで、
槙生は、槙生の友人で元彼である笠町に、「手伝ってって言うだけじゃん。」と言われる。
そのセリフに私は刺さった。「たしかに。」と思った。

その後の槙生のセリフはまさに私の内部にあることを言語化してくれた。
「私には難しい、そんなこと言える価値が私にはないのではないかと思って考えてしまう」

他人に頼ることって私にとっては難しいんだよな…


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