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才能に悩んだら、ぜんぶ物語のせいにしてしまえばいい (#教養のエチュード賞)
「君って心が安定してるよね」
会社の考課面接にしては、ずいぶん曖昧でゆるい言葉だなと苦笑いしていると
「あ、一応、褒めてるんだよ?」
と申し訳程度のフォローをいただいた。
いろんな企業で、やっぱり社員のメンタルヘルスが課題となっているようです。仕事量はそのまま、責任もそのままに部下を働かせられる時間は激減・・・管理職は大変そうだなぁ。できることなら、なりたくない。
「心が安定」しているのが良いことなのかは分からないが「秘訣は?」と聞かれると、コツはやっぱりひとつしかないと思う。
「他人と比べない」
これに尽きるのではないでしょうか。
とは言うものの、それが難しいこともよく分かる。
「他人と比べない」ためには、ある種の諦めと、いくらかの勇気が必要なのではないかと思う。
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高校まで少しだけ数学が得意だった。
「あー、これは僕には分からない。むりだ」と思ったことはほとんどなく、だいたいの問題は解けた。もっと難しい問題を解くつもりで、大学では数学科に進んだ。
もちろん、数学という世界はそんなに甘くない。
「授業に出ないと分からない人は、数学科にはいらないんだよ」
ある教官の言葉を真に受け(いま思えば職務放棄だなと思う)、大学に入ってしばらくの間、外出自粛要請を受けたように引きこもり、数学書と対峙した。コロナが流行していたわけでもなかったのに。
数学書は特殊な書物だ。
「数学書を読む」という行為は1728個の部品からなるパテックフィリップの時計を完全に分解して、もう一度作り直すようなものと、僕は思っている。
「line by line」という言葉があるけれども、その通りすべての文が正しさのために存在し、1つの嘘も、1行の無駄もない。
1行の無駄もないということは、ある1行がなぜそこに書かれているのか分からなければ、「何か」を見落とし理解できていないということだ。
精巧な時計に組み込まれた、どんな小さな歯車にも役割があるように。
1日15時間。脳に汗をかくように読み続けても、2ページとして進まない日もある。そして、その緻密な作品を作ったのは 200年も前に若干20歳で亡くなった1人の若者だったりする。そうした途方も無い天才たちの「物語」が、数学にはあふれている。
煌めく彗星のような才能の逸話は、数学の魅力であり、学ぶものを昂揚させ背中を押す。一方で、自分がいかに取るに足らない存在かも教えてくれる。
結局、僕は「天才が作った箱庭」の中で遊んでいるだけなのではないか、と。
1か月に5分くらいしか喋らないような「数学的自粛生活」を送ること数ヶ月。あるとき、少し具合が悪くなった。上司の言葉を借りれば、「心が安定」しなくなったのだ。
街を歩く人々が無性に羨ましく妬ましく、楽しげに笑っている人を見るだけで、なぜか、落ち込んだりする。
「これは、よくない」と、思った。
人と関わることのリハビリのような感覚で、いくつかのアルバイトを始めた。
だれかに言葉をかけること、そして、反応があること。たったそれだけのことが楽しくて、「話すことは快楽である」と定理を発見をしたような気分になった。
いま、人に会い、話を聞くという仕事をしているのは、この快楽が忘れられないから。あるいは、この快楽に救われたからかもしれない。
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才能に悲観している(当時の僕のような)誰かには、なかなか納得してもらえないと思うが、才能に振り回され途方にくれる日々は、それなりに悪くなかったと思っている。
時計を分解した者しか見たことがない時計の美しさがあるし、0.01秒を縮めるために青春を捧げた者にしか聞こえない筋肉の音があるのだ。
今、ふしぎな縁から、数学にまつわる作品づくりに関わらせていただいている。卒業以来ひとつの微分方程式も解いていないし、何かを組み立てるための積分計算もしていないのに。
そのプロジェクトに僕が提供できるものが何かしらあるとすれば、それは数学の問題を解く力ではなく、かの世界で見てきた「独特な文化」や「美しさ」について語ることではないだろうか。まるでマイナーな国を見てきた旅行者や、ふしぎな体験のサバイバーがそうするように。
才能に悩んだ日々は、僕を”物語の主人公”にはしてくれなかった。しかし、新たな物語の語り部となるチャンスをくれる。
なので、誰かと比べたり才能に嘆いたり、そんな心の不安定のすべては「物語」のせいにしてしまえばいいと思う。
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