路地 偏愛
路地では、日常と非日常が交差する。
ひまを持てあまし、写真の整理をしました。すると、思っていた以上に路地だらけなのに驚きます。自分でもよく分からないのですが、細い道、路地を見ると軽くテンションがあがるんですよね。
旅先では目的地に向かう途中でも「いい路地」を見つけてしまうと、
「ふぅ、入らざるをえないなぁ」
「呼ばれている気がする」
と、つい足を踏み入れてしまいます。
路地を抜けた先に美しい港町が開けたり、街が一望できる丘だと最高。
でも、ひたすら迷った末に行き止まりだったとしても、それはそれで
「Oh、人生・・・」
という感じがして、悪くありません。
最近のスマホはすごく便利で、「路地」って入力すると、これまで撮った路地っぽい写真が、自動でザーっと何百枚も出てくるんですね。
ポートレートや絶景のように気合いを入れてシャッターを押すのではなく、路地はほとんど無意識に、またばきするように撮ったものばかり。
機材もカメラではなくスマホが大半。なので、写真だけだと、いつ、どこの国、どの街で撮ったのか、どうやって行くのかさえ憶えていない路地が随分とあります。
路地からは日常と非日常、両方のにおいがします。
そこでは、だれかの日常と私の非日常が交差する。
このまえ、インド・バラナシの細い路地を歩いていた時、オジサンからいきなり声をかけられ「ラズィニガンダ」という妙な嗜好品を勧められました。
路地を歩かなきゃ絶対に口にすることはなかったでしょうし、たぶん今後も二度と口にすることはないでしょう。でも、味は鮮明に覚えているし、忘れそうにありません。
また、ある国では路地で楽器を奏でる人がいたり、寝ているオジサンも。牛に道をふさがれたこともあれば、クリケットをしている子ども達にであったこともあります。
写真に写る路地は確かに存在する、あるいは存在した。そこで今日も暮らす人がいる。なんなら、とても素敵。でも、行き方が分からない。
あまりに完璧に整理されて便利な世界の中に、そんな迷子のような場所が残されているのって、ちょっとだけ自由を感じません?
書いているうちに、私が「路地を好きな理由」、なんとなく分かってきたような気がします。
もし、Google がさらに進化して、路地の写真1枚から「この場所ではありませんか?」なんてことを指摘しだした日には・・・
たとえ、Google が正しくても、「いいえ、ちがいます」と私は答えてやることでしょう。