自分らしく生きるということの意味
について考えました。いや、まだ考えてます。
ここ数年、研究と教育、そして自分自身の生きる意味について考えてきて「自分らしく生きる」ということがキーワードになっていることに気づきました。「自分らしさが認め合われる社会」を作っていくにはどうすればいいか。それを研究や教育、そして社会貢献を通して自分ができることとは? そんなことを考えて生きてます。
そして、そろそろ「自分らしく生きる」ってどういうことか、一回整理しないといけないと考えてこのnoteを書いています。書き始めたのが2020年の1月。今は5月。書いては消して、消しては書いています。ちなみに、これから書くことは研究でサポートされていること、必ずしもそうでないことが混在して書かれています。その区別はその都度していきます。そして、また新たな情報や考察が加えられたら修正するつもりです。
自分らしく生きる の「自分らしさ」から考えてみる。自分らしさってなんだろう。
自分らしさ
自分らしさ、というものを私は色々考えた結果、ここでは「自分で思う自分」ということにしようかと思います。自己概念とも言える。例えば
・ 私は勉強が得意な・苦手な人間だ
・ 私は人付き合いが得意だ・苦手な人間だ
・ 私はスポーツが得意だ・苦手な人間だ
・ 私は人に優しくできる人間だ
・ 私はすぐにイライラしてしまう
・ 私は育児に向いていない
・ 私は接客業が好きだ・嫌いだ
・ 私は好き嫌いが激しい
・ 私は男らしくありたい・女らしくありたい
・ 私は日本人らしくありたい・日本人らしくありたい
など、結構なんでもいける。
自分で思う自分、は自己とも言うことができる。自己は心理学では色々な分け方ができるが、今回はこれを使ってみます。
Higgins博士のSelf-Discrepancy Theoryより:
https://en.wikipedia.org/wiki/Self-discrepancy_theory
Actual Self: 自分で思う自分
Ideal Self: こんな自分だったらなあと思う自分
Ought Self: 他者から見て、あなたがそうであるべき、と思われる自分
お気づきの通り、私がこの記事で使いたい自分らしさの定義は最初の Actual Self。つまり、「自分で思う自分」。
自分らしさ、をAuthenticity (自分であることの本来感)として研究している人もいて、つくづく面白い概念だと思う。
「自分らしくある感覚(本 来 感)と自尊感情がwell-beingに及ぼす影響の検討」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep1953/53/1/53_74/_pdf/-char/ja
とりあえずこの私の記事では自分らしさは「自分で思う自分」とします。
では、「自分らしさ」が「自分で思う自分」だとしたら、「自分らしく生きる」ってなんだろう。
自分らしく生きる
面白い研究があります。
伊藤正達さんという研究者が行った「自分らしくいる・いない生活状況についての探索的研究(2007)」だ。簡単に言えば、193人の大学生に「あなたが自分らしくある、ないときってどんなときですか?」と聞いた研究。結果は以下の通り。
自分らしくいる状態
・対人場面において:親密な関係の他者と一緒に過ごし、リラックスしている状態
・生活・活動場面において:好きなこと(仕事、スポーツ、芸術など)をして、イキイキしている状態
・心身の状態:心身ともに安定していてポジティブな状態
自分らしくいない状態
・対人場面において:慣れない対人関係において、社会的に自分を抑圧したり、装ったりする状態(慣れない人たちとの飲み会とかも)
・生活・活動場面において:嫌なことをしているとき
・心身の状態:心身が不安定で、ネガティブな感情の時
つまり、自分らしくある状態というのは「自分を偽ったり良く見せたりする必要のない、一緒にいると心地よい他者(仲間)に囲まれ、好きなことをして、心も体も安定してポジティブな状態」であり、
自分らしくない状態というのは「一緒にいても不慣れだったり嫌な気持ちになったり、自分を偽らないといけない人たちに囲まれ、嫌なことをし続けないといけない状態で、心身が不安定でネガティブな気持ちになるとき」(この状態はさっき出てきたHiggins博士のSelf Discrepancy Theoryで言うところの、Actual SelfとOught Self(他者に求められる自己)に不一致が起きている状態とも言えて、とっても不快。)
ということだろう。
私が面白いと思った点は、自分らしさというものが自分の中で完結していない点だ。自分らしくいるためには、偽る必要のない自分というものを仲間と共有する必要がある、ということだ。
最近、宇多田ヒカルさんのドキュメンタリーを見た。そこで彼女がこんなことを言っていた。「真実は自分の中にしかない」。違ってたら宇多田さん、殴ってください。ただ、このようなことを繰り返していた。彼女の生い立ちは結構浮世離れしていたようで「9歳のころに悲しいなどの感情を失っていた」ということを言っていた。彼女は音楽を作り、表現することで、自分らしさを確かめていたのかな。
「真実は自分の中にしかない」。これは宇多田さんの強い思いだ。私が面白いと思うのは、その自分の中にしかないであろう真実を彼女は常に音楽にして、発表してきたという点だ。なぜ真実は自分の中にしかないのであれば、それを音楽にする必要があったのだろう。完全に私の推測だが、その真実というものを確かめるためには、やっぱりそれを表現し、他者に伝え、他者からのなんらかの反応を求める必要があったんじゃないかと思う。
上記にある、伊藤さんの研究や宇多田ヒカルさんのエピソードでわかることは、「自分らしくある状態」というのは「自分で思う自分が仲間と共有されている」ということだろう。
ただし、
「自分らしくある状態」=「自分らしく生きる」
ではない。そう私は考えます。
長くなったが、私が思う「自分らしく生きる」とはこういうことです。
「自分で思う自分が 他者や社会に 受け入れられた上で 肯定的に捉えられている と感じられる ように生活できている」
最初、自分らしく生きるということは「自分で思う自分が 他者や社会に 受け入れられること」だと考えていました。つまり、肯定的に捉えられる、は入れていませんでした。
しかし、一つのエピソードを思い出した。
私はアメリカに7年ほど留学していました。楽しい思い出も多いが、ことアメリカ人ばかりの授業を受けていた時はけっこうしんどかった。それは授業が難しかったという理由だけではなくて、授業にいるときの周りの自分への扱いがしんどかった。私は確かに授業に存在していた。そしてある程度会話もしていたので、受け入れられてもいたと思う。
でもそのときの私に誰かが「自分らしく生きてますか?」と聞いたとしたら、答えは確実に「いいえ」だったと思う。なんでだろう。
それは私が思う私というものが、アメリカ人やアメリカ社会にとって、明らかに有益とは感じられなかったからだ。彼らにとって私はいていい存在だったと思う。でも私らしさが彼らにとってプラスに働くことはなかった。それはつまり、私が思う私というものがアメリカ人にとって肯定的に捉えられてはいなかったという事なのだと思う。
つまり、自分らしさというのはただそれが受け入れられている状態、つまり「あなたは別にそこにいてもいいんだよ」という状態だけでは、自分らしく生きている、とは言えないのではないかと考える。
著名な心理学者、Dr.Learyは、自己肯定感についてこう説明する。「自己肯定感とは、自分という存在が他者に肯定的に評価されていると感じられているかどうかを示す装置である」https://en.wikipedia.org/wiki/Sociometer
自己肯定感と自分らしさ、というものは違う概念だが(しかし両者は相関している: https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep1953/53/1/53_74/_pdf/-char/ja)、自分らしく生きるためには、やはり自己というものが他者の中で肯定的に捉えられる必要があるのではないかと考える。
「(自分らしさが)肯定的に捉えられている」、というのは例えば、(自分らしさが)他者や社会に役立っている・有益であるような状態を指す。例えば、アメリカにいた頃の私も、私らしさや、私が持っているスキルや知識などが周りのアメリカ人に求められているような状態であれば、もっと自分らしく生きていると感じられたのではないだろうか。
最後は、私の考えた定義の「自分で思う自分が 他者や社会に 受け入れられた上で 肯定的に捉えられている と感じられる ように生活できている」の
「感じられている」
という部分も大事かと思っています。
例えば、音楽や絵を作って、それらが誰かを感動させたら嬉しい。私も、音楽をやってた時期があったが、やっぱり作ったものはどうしても発表したくなる。誰にもばれないようにネットにアップしたって、結局聴く人がいると嬉しかった。SNSなどはまさに良い例である。自分の思いは自分だけが見るメモに書いておけばいい。そうすれば誰にも傷つけられることもない。でも人は自分の思いを共有したいと思う。それはなぜか。いいね!が欲しいからだ。いいね!は自分の思いが他者に肯定的に評価されたという印だからだ。
いくら自分らしさが他人に肯定的に評価されても、そのことを私自身が知らなければ、それは自分らしく生きていることにつながらない。つまり大切なのは、自分らしさが他者や社会に肯定的に捉えられていると「思える」ことだ。
(逆に言えば、自分らしさが他者に肯定的に捉えられているという事実がなかったとしても、そう思えてさえいれば、自分らしく生きることができるはずだ。自分というものが他者に受け入れられていると「感じられる」ことがいかに他者との関わりの幸福感に影響を及ぼすかについてはPerceived Partner Responsivenessの記事を読むと良いです:
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2891543/
私がResponsivenssについて書いた記事は:
どうでしょう。この定義:
自分らしく生きる、とは:
「自分で思う自分が 他者や社会に 受け入れられた上で 肯定的に捉えられている と感じられる ように生活できている」
定義とは、それが他人に使われて、見当違いなものであれば、捨てられるものだし、そこまで悪いものでなければ修正されていくものだ。これを読んだ誰かにとって、この自分らしさの定義がしっくりくりきてくれれば嬉しい。その瞬間、私は自分らしく生きていると感じられるはずだ。
補足1
私が考えた定義の要素の一つ「(自分らしさが)他者に肯定的に捉えられている」という部分は、結構踏み込んでいる。自分らしく生きるために、必ずしも自分らしさが他者に肯定的に捉えられている必要はないのじゃないか、とも思った。
例えば「自分の力強い筋肉が自分らしい」と考えている人にとって、きっと筋トレをすることは自分らしさを構築する上で欠かせない活動だと思う。その人はその筋肉を他者に見せなくても、その人は自分らしく生きていると言えるのではなかろうか。
自分はただただ絵を書くことが好きだと言う人もいる。その人は、その絵を誰にも見せなくても、絵を書くという行為だけで自分らしく生きていると言えるのではないだろうか。
言えると思う。でも私はあえて、コミュニケーション研究者として踏み込みたい。
最初の例の人は、そのたくましい肉体を誰かに褒められたらどう思うだろうか。次の例の人は、自分の書いた絵が誰かを勇気づけたとしたら、どんなに嬉しいだろうか。
私の「自分らしく生きるの定義」
「自分で思う自分が 他者や社会に 受け入れられた上で 肯定的に捉えられている と感じられる ように生活できている」
は、正確に言えば「自分らしさを社会で活かして生きる」なのだ。
(自分らしさを社会で活かす、というあたりの発想は、
菅野仁先生の「愛の本ー他者との「つながり」を持て余すあなたへ」
を学部生のときに読んだあたりから、自分の中に息づいている。菅野先生、一度お会いしたかったです。。。)
つまり、「他者からの評価は自分らしく生きることに影響しない」と考えている人にとって、私の考えた定義はうまく機能しない。そういう人たちに対して、何も反論はないし、そういう人たちの意見に私は完全に納得する。
補足2
自分らしさを構成する自己の要素は必ずしも、自分にとってポジティブなものである必要はないと考えられる。むしろ、ネガティブな自己の側面の方が、より自分の内面と関連することもあり得る。そんなネガティブな自己の側面を他者に肯定的に捉えてもらう、ということはかなり難しいだろう。しかし、研究によれば、人はそんなネガティブな自己を親密な他者に受容してもらいたいという動機を持つことが分かっている。
https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.2466/pr0.1995.76.2.383
補足3
自分らしさのすべてを使って、自分らしく生きる必要もないのではないか。例えば、私は自分のことを「アジア人である」と思っているが、それを活用して自分らしく生きようとはそこまで思っていない。自分らしく生きるために使う自己の要素は、自分で選んでいるんだと思う。
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