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想像していなかった未来がもたらす喪失感──AI・SNS時代の人間らしさを問い直す
未来の違和感と隔たり
僕らの目の前に広がっている世界は、僕たちが十年前に描いていた未来とは随分と異なる。某アーティストの言の葉を借りると、「車もしばらく空を走る予定はなさそうだ」。我々の孫が未来の猫型ロボットを送りつけてくることも想像が難しい。
技術の発展とともに街の風景は変わり、人々は手元の小さな画面に吸い寄せられるように顔を埋めている。絶え間なく更新される情報、次々と現れる通知やメッセージ。それらの洪水の中で僕らは知らず知らずのうちに日常を変えられてしまっている。けれども、僕らがこうした生活に馴染むほどに、僕はこの「便利な未来」に対してどこか居心地の悪さを感じずにはいられない。
この未来に僕らが当たり前に取り入れた技術の多くは、もはやなくてはならない存在だ。自分の都合に合わせていつでも誰かと連絡がとれる、情報は一瞬で手に入る、そして一人でいても孤独ではない。かつてSFの中でしかありえなかった発明が現実になった今、僕らはまるで新しい惑星に立ち尽くすように、どこか無防備な感覚に包まれている。そして、その便利さに埋もれた未来の中で、僕らは自分たちが何を失い、何を得ているのかを問い直す必要があるのかもしれない。
便利さと効率化に伴う喪失感
技術の進歩は、僕らの生活を実に便利で効率的なものに変えてくれた。たとえば、どこにいても手元の端末から、必要な情報が瞬時に手に入るし、必要ならば遠く離れた相手とも簡単に「繋がる」ことができる。道を歩きながらでも、一人静かに過ごしている時でも、わずかな操作で情報が飛び交い、あらゆるものが手に届くのは事実だ。こうした変化は、僕らの生活を効率化し、日々の不便さを取り除いてくれる。これだけの恩恵に預かりながら、僕らは何かを手放してしまったことに気づかされることも少なくない。
以前は、偶然の出会いや意図しない発見が、日常にひそやかな喜びや驚きをもたらしていた。行き当たりばったりに歩き回って出会う景色や、予想外に道を訪ねることから生まれる些細な交流、それが時には深い印象を残すこともあった。でも、今や僕らはたいていのことを画面上で計画し、事前に把握できるようになってしまった。わずかな迷いや戸惑いもなく、予定調和の中で出来事を過ごすことで、僕らはこうした「予測できないもの」から遠ざかっているように思う。こうして少しずつ、人間らしい戸惑いや驚き、あるいは自分との対話の機会を削ってしまっているのではないだろうか。
また、情報や繋がりに依存するようになると、自分と向き合う時間が自然と減っていくことに気づく。いつも「誰か」にアクセスできるし、何かが手元に届く。それは確かに心強いし、孤独感からの解放ともいえるかもしれない。しかし、それと引き換えに失われた時間には、自分自身とじっくり向き合うための沈黙や、内なる声と対話するための空白が含まれているのだ。僕らは便利さを手に入れた一方で、自分の心の中に踏み込む時間を少しずつ手放しつつあるのかもしれない。それは、未来が僕らに残していった無言の問いかけだ。
AIの影響と「人間らしさ」の失われゆく未来
こうして、便利さに依存する生活が進むと同時に、僕らは今、新たな「知性」にまで頼るようになっている。AI、つまり人工知能だ。それは僕らが思い描いていた「未来」の象徴であり、実際に多くの分野で僕らを超える判断力やスピードを持っているらしい。大量のデータから瞬時に正確な結論を導き出し、膨大な量の情報も効率的に処理してみせる。けれども、果たしてこの無機質で冷静な知性に、僕らの「人間らしさ」をも委ねてしまって本当にいいのだろうか。むしろそれは、僕らから何か本質的なものを奪い去ってしまうかもしれないと感じる。
たとえば、AIは迷わず合理的な選択をするが、そこには感情の揺れや曖昧さが一切含まれない。人間であれば、自らの感情や経験、時には理由さえ不明な「ひらめき」に頼って決断を下すことがある。けれども、こうした感情や曖昧な部分こそが、実は人間らしさを形づくる重要な要素なのではないかと思う。AIの合理性に支えられることで確かに生活は便利になるが、そのたびに僕らは「人間ならではの揺らぎ」を少しずつ失っているのではないだろうか。言い換えれば、人間の内側にある不完全さ──その不安定さや迷いが、いつの間にか「不要」として切り捨てられているように感じるのだ。
AIに生活の一部を委ねる未来は、間違いなく僕らを快適で安全な方向へと導いてくれるだろう。けれども、それはあまりにも「理想的」すぎるのかもしれない。完全に合理的で、すべてが予定調和の未来を生きることは、想像する以上に退屈で、虚しいことかもしれない。僕らが未来に求めていたのは、こんな風に隅々まで管理された安心や快適さだったのか?いや、僕らが本当に求めていたのは、もっと人間らしい不完全さ、予測のつかない不安や喜びのようなものだったのかもしれない。
SNSの影響と孤独感の変化
AIが日常に浸透し、合理性と効率が僕らの生活の中心に据えられつつある今、もう一つの「未来の風景」が存在する。それはSNSやメッセージアプリによる、僕らの「繋がり」のあり方だ。いつでも誰かと連絡が取れるし、見知らぬ誰かとまで簡単に情報を共有できるこの世界では、一人でいる時間でさえ、完全に「孤独」になることが難しくなっている。多くの人にとって、それは便利で心強い未来の姿かもしれない。しかし、僕は時々その「便利さ」によって、かえって大事な何かが失われているのではないかと感じる。
例えば、SNSを通じて友人や知人と繋がり、共有し合うことは確かに僕らを満たしてくれる。けれども、どれだけ画面上での交流があっても、そこにはどこか触れることのできない薄い壁のようなものが感じられるのだ。いつでも「誰かがそばにいる」という感覚は、確かに心強い反面、僕らから真の「孤独」を遠ざけてしまっているのかもしれない。かつては一人の時間や孤独が、自分と向き合うための大切な機会でもあった。見知らぬ街をさまよい、ただ夜が明けるのを待つような孤独は、自己と向き合うための貴重な瞬間だったのだ。
しかし今は、孤独を埋める手段が画面の中にすべて詰め込まれている。それが結果として、僕らから本来持っていたはずの「自分自身との対話の時間」をどんどん薄めているように思うのだ。常に「誰か」がいることが保証されている未来の中で、僕らは何を失っているのだろうか。心の中の空白を埋めるだけの繋がりや、孤独から逃れるための画面越しの交流──それは、実は僕らから、本当の意味で自分自身を感じる時間や空間を奪っているのかもしれない。
僕はふと、こうした未来が僕らに問いかけているのではないかと感じる。「効率的で安心な未来」と「心の揺らぎを含む過去」の間で、僕らはどちらに身を置くべきなのか。そしてもしその答えが見つかるのだとしたら、それはただ未来を見つめることではなく、過去のどこかに目を向ける必要があるのかもしれない。
未来と過去の価値の再評価
こうして見ていくと、僕らが手に入れた「想像していなかった未来」は、決して単純に進歩や幸せを意味しているわけではないのかもしれない。便利さや効率、常に「誰か」がそばにいる感覚、AIによって合理化された生活──それらは間違いなく僕らに安定と快適さをもたらしてくれている。しかしその一方で、こうした未来にはどこか決定的な欠落があるようにも感じるのだ。それは、過去に僕らが持っていた孤独や戸惑い、計り知れない不確実さといった「人間らしい揺らぎ」かもしれない。
あるいは、僕らが今こうして未来に戸惑い、居心地の悪さを感じる理由は、そうした揺らぎが未来から失われつつあるからかもしれない。AIの冷静な判断に頼り、SNSで絶えず誰かと繋がる生活の中で、僕らは「人間であることの意味」を見失いかけている。便利さや効率を追い求める一方で、いつしかその過程で置き去りにしてしまったものがあるのではないか。それは「偶然の出会いや、孤独の中に宿る自分との対話」だったのかもしれないし、「不完全なままの人間らしさ」だったのかもしれない。
この未来の中で、僕らは本当に「生きている」と感じているだろうか?もしもそこに疑問があるのだとしたら、あるいはその答えは未来にはなく、過去のどこかに眠っているのかもしれない。少なくとも、僕らがまだ見ぬ未来を追い続ける中で、ふと振り返るべき過去の価値がある──そんなふうに感じるのだ。僕らは再び、過去にある自分自身の輪郭を探し、その上で未来と向き合うべきなのかもしれない。