旅の味覚、風景の記憶
旅先での食事にこだわる理由の一つには、「その土地を味わう」という言葉が実際に形を取るからだと思う。目に映る景色、耳に届く方言や音楽、そして口に入れる食べ物がすべて相まって、一つの体験が形成される。その体験は、ただの観光以上の、もっと深い部分での記憶になる。私が常にその土地の食べ物にこだわるのは、そこに、その地域ならではの風土や歴史、文化が凝縮されているからだろう。
だが、食べ物にこだわるといっても、それは常に高級な料理を求めているわけではない。むしろ、質素であっても「その場の風景に合ったもの」を求めていると言った方が正しい。例えば、山の中の小さな茶屋で食べる蕎麦。特別な出汁が使われているわけでもない、見た目も平凡な一杯だが、山の静けさと風の音、そして疲れた体に染み込む熱々の蕎麦湯が、一体となって心に残る。それは、きっと都会の蕎麦屋で同じものを食べても感じられないだろう。
このように、食べ物は「その場」との結びつきが非常に重要だ。海辺で食べる新鮮な魚介類、山奥で味わうキノコや山菜、あるいは観光地の露店で売っている何気ない串焼き一つが、その時その場でしか味わえない特別な体験となる。そして、そういった体験が、後に思い返すたびにその旅を鮮やかに蘇らせてくれる。
あるとき、私は四国を訪れた。うどんの本場として知られる香川県に足を運んだのだが、その日の目的は観光よりも、何よりも「うどん」だった。どこまで行っても讃岐うどんの看板が並ぶ通りを歩き、偶然入った店で食べた一杯のシンプルなぶっかけうどん。その腰の強い食感と、澄んだ出汁の香り。驚くほどに何気ない一杯だったが、その美味しさは心に刻まれた。さらに、その店のおばあさんが、私に「もっと食べて行きなさい」と無理やり追加の天ぷらを持ってきたことも、今では懐かしい思い出だ。料理そのものだけでなく、その場の人との触れ合いもまた、旅の味わい深さに繋がっている。
食べ物が思い出と結びつく瞬間は、偶然であり、計画的に作り出すことは難しい。それは、何度も訪れた場所でも、同じ料理でも、気候や自分の体調、さらには一緒にいる人の存在が微妙に影響を及ぼすからだ。たとえば、寒い冬の日に食べた熱々の鍋と、夏の暑い日に同じ鍋を食べたときの印象は全く異なるだろう。つまり、食べ物はその時々の「体験」によって味が変わる。それが、旅先での食事が特別になる理由だ。
しかし、こだわりすぎるのも、時に旅の楽しみを損なうことがある。ある旅では、どうしてもその土地の名物を食べたいと思い込んでしまい、気づけば地元の食材や料理を求めて、観光の時間をほとんど使ってしまったことがあった。結果として、名物は堪能できたが、肝心の風景や文化に触れる時間が足りなくなってしまい、少し後悔した。旅にはバランスが大切だということを、その時ようやく理解した。
だから今では、少しの「こだわり」と、少しの「無計画さ」を持って旅をすることにしている。名物や地元料理を探すのは確かに楽しいが、時には予期せぬ食事や偶然立ち寄った店での食べ物が、旅の思い出に深く刻まれることもある。旅先で出会う食べ物には、常に予想以上の「発見」がある。だからこそ、こだわりすぎない、自由な心で食事を楽しむことが、私にとっての理想的な旅のスタイルなのだ。
さて、次はどんな料理に出会うだろうか。次の旅でも、また新たな味わいが待っていることだろう。その土地ならではの料理が、私にどんな物語を語りかけてくれるのか。それを楽しみに、私は次の旅へと足を運ぶ。