鈍い期待、淡い想い。
1.
駅構内には誰もいなかった。
人類の残骸だと言われているこの建造物達は、その主人の消滅を元に苔がむし、草木に侵食され、鉄は腐食し、干からびていた。数百年前に人類が突然消えてから、長い時間が経った。その時間という流れの中に置き去りにされたオブジェクトとして、一つこの駅があるのだった。ボロボロに穴の空いたプラスチックの三つ並んだ椅子。様々な液体を販売していたとされる、黒い直方体の箱。そして、少し下を見下ろすと鉄骨と木材でできている道が横たわっていた。何のためにこれらが作られたのかわからない。どうしてこのようなおかしなもの達がここにあるのかもわからない。
2.
失礼、私の自己紹介を忘れてしまっていた。自己紹介をするほど私自身に情報があるとは思えないが。少しでも姿をイメージしやすいようにここに記す必要があると感じている。私はおそらく一種の概念としてここにいる。曖昧な言い方をやめよう。黒い物体だ。もやもやとした霧のようなもので体全体を隠されている。自分自身の身体がどこからどこまでなのかすらわからないが。たしかにこの手に感覚はある。そして、感情も。自分の心の動きを詳細に感じることができている。悲しいだったり、寂しいだったり。そんな感情を。なぜ、私一人だけがこの誰もいない世界にいるのかわからない。ただ言えることは、おそらく私はずっと昔にこの場所に来たことがあるということだ。来たことがあるというよりか日常的にこの景色、この駅という建造物の景色を見ていたような感覚がしているのだ。辺りを見渡すと、見たこともないようなものを見たときの感覚とは違う、何だか懐かしい、あたたかい気持ちになるのだ。この干からびたもの達の中は妙に落ち着くのだ。
3.
駅構内を歩く。緑色の生物の波が侵食し始めていて、歩きづらいところもあるが、その間をかき分けて歩く。やはり誰もいないのだろうか。私はここでひとりぼっちなのだろうか。風が通り過ぎる。奥から突き抜けてくる音が耳に響く。ぼぉっと、低い音が。僕を怖がらせているのだろうか。階段を降りていって、地下道を歩く。木の根が幾何学的模様を描きながら張り巡らされていて、そこには何かしらの神聖なものが、時間というものが作り上げる生命の力の偉大さが垣間見えていた。その間に、一枚の絵が置かれている。もう既に、黄色にくすんでしまっている一枚の絵が。それは、美しい青で描かれている絵だった。多分、空を描いたのだろう。日曜日の昼間に浮かぶ、なだらかな雲が浮いていて、草原の中の草木がたなびいていた。写実的ではないものの、この絵には何かしらの象徴的なものが見て取れる。木の根に絡みつかれてなお、そこには堂々とした"作品"自体のプライドを感じることができた。僕は、しばらくの間、近くの地面に座ってこの絵を眺めた。他にすることもなかったからでもあり、個人的にこの絵に興味を持ったからでもある。ずっと眺めていれば、僕も絵の一部になれるのかなっていう考えが浮かんできた。それは素晴らしい案のように思えた。いいではないか、私はこの絵の中の一部となって、ずっとこのままここで。木の根や植物達に抱きつかれながら過ごすのだ。
4.
僕は、長い間そこにいたがもうそろそろ動き始めなくてはならないことがわかっていた。重たい足を、足があるのかわからないけれど、動かして階段を上っていく。太陽の鈍い鋼鉄のような光が体に突き刺さる。駅のホームのあたりに上がると。先ほども見ていた線路をもう一度眺める。
そこには一体の死体が横たわっている。それは見ないようにしていた、けれどもやはり見なければならないものだった。どこが頭で、どこが腕で、どこが足が見分けすらつかなかったが、それは"僕"であることが、動かしがたい真実であることがわかった。記憶という糸をより集める。細く、透明で、今にも消えてしまいそうな糸を。
5.
電車に飛び込んだのは、自殺をしようと思ったからではない。本当に無意識だったのだと思う。学校に行くことを考えたら、今ここで死んでしまったら楽になれるのにとずっとずっとずっとずっとずっと考えていただけだったのに。自分自身の心がもうすでにバラバラに分解されて、その跡も残らないほど小さく弱くなってしまった。どんよりと重たい空に、雨が細く降っている。ホームにたかる人だかりは誰もかれもが僕を見ているような気がした。快速急行がこの駅を通過するアナウンスがかかる。聞きなれたいつものメロディー。ざわざわとするホーム。
僕は軽やかにステップを踏んだ。
それはある種のダンスを踊っているみたいだった。
電車の汽笛が聞こえる。いや、僕の耳には聞こえない。
体が猛烈に熱く発火し、僕だったものの一部がバラバラに散らばっていくことがわかった。
それが、僕の最後だった。
6.
涙は、どこから流れているのだろうか。
その液体は心から溢れ出してしまっているように思える。
そしてそれは、地球に引っ張られて落ちていき。
やがて蒸発して、雨となるだろう。
コメント→パンケーキの上の蜂蜜が好きです。