ふたご座流星群を見にいきました
今日は昨日の夜の出来事を書き留めた文章です、追伸は想像。
ふたご座流星群を見に行った。
畑道の真ん中で、一度立ち止まって空を見渡す。
街頭の光が眩しくてよく空が見えないので、コートの袖でそれを隠す。
東とはどの方角だろうか。昔、教科書で暗記した福沢諭吉の天地の書を口で唱える。
天地日月
東西南北
北を背に南に向かいて右と左を指せば、左は東、右は西。
どうやら、私は北すらわからないらしい。ため息と一緒に白い息を吐いて、とりあえず明るい星が集まっているところを見上げた。
オリオン座だ。
私は、近くの石で固められた壁の上に座るとそのまま二十分くらいじっと空を見上げていた。耳が冷たい。先程、箪笥の奥から出してきたばかりのマフラーを顔の位置まで上げる。残念ながらお目当ての流星群は見えない。昨日が極大日だったからもしかしたら、今日は数が少ないのかもしれない。ただ、星を見上げているのもそんなに悪いことじゃない。最近空を見上げる時間を取ってはいなかった。こういう時間もいいではないか。珈琲があれば言うことなしなのだが、自動販売機はもう少しだけ遠くにあるみたいだ。
星はなにかの地図を表しているみたいに佇んでいる。
私から星たちはよく見える。
あの星から私のことは見えるのだろうか。
答えのわかりきっている問を立てては、言葉の響きを楽しむ。
ふと、言葉についても想いを寄せた。
私がいなくなったら、この言葉たちはどこに残るのだろう。こうして書き込んでいる言葉たちはどこに消えていくのだろう。あの星まで光が届くほど長い時間の間に、私の言葉は意味を失って、砂のように消えていく。やがて忘れ去られていくのだろう。
それほど、弱いものなのだ。
それほど、儚いものなのだ。
私は場所を変える。坂を登っていきもう少し小高い場所で見ることにしたのだ。ポケットに手を突っ込みながら、冬の街を歩いていく。静まり返るこの道に私しかいない。そんなときに限って小学生の頃に覚えた歌を思い出す。
月が丘をゆく、夜光虫を引き連れて。
鼻歌はとても素敵だと思う。それはどこまでも自己完結的だ。自分のために、いや自分のためですらないのかもしれない。メロディーと歌詞が私の口を勝手に使って生み出されていくようなものなのかもしれない。あいにく、私は歌がうまくないので、鼻歌を歌っているときが一番音楽に集中できる。
そんなこんなで、坂の上までたどり着くとコンクリートのその場所に寝転がった。
電線もない、街頭は少し遠くに。左側に山があってその方角の空が見えないことを除けば最高の場所だった。
私はオリオン座と対話する。
次の瞬間だった、丁度、オリオンの下の方に。細い一本の光の筋が浮かび上がった。
私はおもわずあっと声を上げるとすぐにその光は消えてしまった。
流れ星だ。
本当にあるんだなんて、言葉を使いたくないのだけれども。
やっぱり、自分で見るのは特別だ。
残念ながらその後、もう一つくらいみてやろうと粘ってはみたが結局、それきり見えることはなかった。
帰り道、もしかしたら私が見た流れ星はきっと幻覚だったのかもしれないと思った。
自分が見たと勘違いしているだけなのではないかと。
そんなはずはないのだが。
ながい午睡をしたからだろうか、夜はこれからだ。
追伸
コンテナの上に乗っかるのは危ないと言われているのに、僕と君はそこで星空を眺めている。
今日は流星群が見えるらしい。うみかぜがほほをつねる。
上弦の月が君の髪の毛を照らすと、僕はゆっくりと空を見上げた。
流れ星だ。
今日はもう寝よう。きっと明日もいい日になる。