第1話 間違った道
「お前たちが人の道に反することをしたら、殺す」
父はそう言って包丁を畳にぶっ刺した。
小学校低学年だった私は
人の道に反すること=殺人
それくらいしか頭になかった。
殺人なんて、もちろんしない。
そんな当たり前のことで、なんであんなに父親は怒ってたんだろう。
姉は泣いていた。
「なんでそんなことするの?」って泣いていた。
その光景はたまに思い出す。
昭和から平成、令和となり、事件、事故、災害、信じられない出来事が次々起こった。
虐待、暴力、毒親、親ガチャ、家庭問題、煽り運転、昭和の時代じゃ、簡単に発信されることがなかった、隠れていた事が表にでてきた。
人の道に反することとは、殺人だけではなかった。
半世紀生きてきた私は、一度も人の道に反することをしてないといえるのだろうか。
そもそも、畳に包丁を刺して、子供、母親に恐怖を与えたあの父親の行動は許されるものなのだろうか。
昭和という時代は今とは違う。
子供は生まれた環境、まさに親ガチャによって左右される。
それは昭和も令和も変わらないかもしれない。
けれど、今の時代なら先生だって暴力振るったら騒ぎになる。
私が子供の頃は、先生は神だった。
先生に殴られたなんて、親に言えなかった。
なんで殴られたのか、私が悪いことをしたからか、いや違う。
「クラスの乱れは学級委員長の乱れ」
そんな迷言残されて、私は殴られたのだ。
H先生は学校で一番怖かった。
運悪く、私は小学五年、六年と、二年間もそいつが担任だった。
変に責任感がある私は、学級委員長なんてやってしまったのだ。
クラスの投票で決まった。
しかし、その担任は、お気に入りのEちゃんに学級委員長になってほしかったようで、私のことは気に入らなかったようだ。
そのことに気づいたのは、授業参観で学級会をやった時だ。
学級会の司会は学級委員長と決まっていた。
それなのに、私は書記。
Eちゃんが司会をつとめた。
母親はおかしくないか?と言っていた。
担任と母親が揉めるのは避けなければと、あーでもない、こーでもない、その時考えられる子供なりの理由で母親をなだめた記憶がある。
今まで山あり谷あり、壁ばかりぶつかってきた私は、あの頃、親の顔色伺って、先生の顔色伺って、その他の大人たちの顔色伺って、そうやって生きてきたことが、役に立ってるような、それが邪魔して、よけいに壁がたくさんできてしまったような気がしてならない。
振り返ることが辛く、思い出さないようにしてきた。
思い出すと胸が苦しくなって、自然と涙が流れる。
思い出さなければ辛い気持ちになることはない。
しかし、私は書こうと思う。
毒親に苦労した人はたくさんいる。
私の親が毒親にあたるのか?と考えると、他の話に比べたら、全然、あんた何言ってんの状態な気もする。
けれど、その時はそういうものだと乗り越えてきた出来事が、今考えると繋がっている。
ふざけるなと思う。
現に私は、親、姉、親戚と連絡を絶った。
親が知ったら悲しむかな?
そんな思いもあって、発信することを避けてきた。
もう、そんなの関係ない。
自分の思いを残していこう。
これだけ長い間、忘れることができなくて、思い出すと腹立たしい、H先生に対しても、私は放課後犬の散歩ついでに会いに行ってたのだ。
放課後の先生は、怒鳴り散らして殴ってた顔と違い、花を育てる優しさを持っていた。
人はみんな優しいんだ、怒ってたのは私が悪かったからなんだ、そんな風に自分が悪い、自分が変わればいいって考えるようになった。
やはり、子供の頃に経験した、感じたことは、その後の人生に繋がってる。
だから私は、DV、モラハラにあっても、自分さえ変われば、本当はこの人は優しいはずと思い込んでいったんだ。
その話はまた別の機会に書いていこうと思う。