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長男亮爾と私との勝負の歴史 #① 【息子への手紙】

(1)君とは、何回も勝負したね。

君は1歳で歩き始め、1歳6ヶ月頃には、20曲くらいの歌を歌えるようになっていた。私達は、「この子は頭が良い! 天才だ!」と、自慢に思っていたものだ。

入船中央エステート101号室を購入して住んでいる頃、君が小学1年生の夏頃か、庭の向こうで誰かが虐められていた。虐められていたのは亮爾だった。
「何してるんだ?」と声をかけると、相手が少しひるんだが、亮爾は攻撃を避けるだけの感じ。
「なんだ亮爾! 喧嘩なら、俺が付いている。頭突きをしろ!」と言うと、恐る恐るやろうとするが、両手で肩を押されて上手くできないでいるし、相手の子もやりづらそうだ。その場はそれで済んだが、どうも亮爾は弱そうだ、と判った。

同じ頃、お母さんが、公文の先生から「亮爾は少し知能の発達が後れているようだ」と言われた、と言う。
「そうか?」「俺の子がそんなわけがない」「亮爾は、いずれ力を出してくるから気にするな!」と、全く気にもしなかった。

その後そんなことは忘れてしまい、君が3年生の頃か、少年サッカー部だったので、見に行ったら、君はボールの近くでウロウロするばかりでボールに1回も触れないでいる。俺の子が情けない! と思ったので、君を呼び寄せて言った。
「亮爾! ボールに触ってこい!」「10回ボールに触れたら、何でも買ってやるぞ!」と。
そしたら、急に走り出して、ボールにちょこんと足で触って、1回、2回と触りだした。蹴るまでには行かないが、触るだけでもまぁ良いか、と見ていたら、10回触ったら私の所に飛んできて、「お父さん、10回触ったよ!」と報告し、その後はもう触ろうとしない。
その時、何を買ったか忘れたが、気の小さい弱い子供に育ってしまったことには気づいた。

そんなこともあったのに、君の為に何かをすることは無く、私はまた翌日からは仕事に専念し、子供のことはお母さん任せにしてしまった。今思えば、もっと父親の私がすることがあった、と反省しているが、亮爾には申し訳ないことをしてしまった。

(2)一回目の勝負

君が中学3年の時、そろそろ亮爾の将来を考える頃だな、と考えて、父母会の副会長を引き受けた。私は、校長に頼まれてPTAの会則を作り、PTAを創ったりした。

当時は荒れた中学校の時代で、虐め事件もしょっちゅうあったし、学校の物置が燃えるボヤ事件等が起きた。
当時の君は、空手やボクシングの道場に通い、かなり強くなっていたので、虐めの対象から虐める側に回っていたのではないかな。

そんなある夜、君の友達が迎えに来て、夜遊びに出かけようとしていた。たまたま居あわせた私が、
「おい、何処に行くんだ?」と聴いたら、
「ゲーセンに行く」と言う。
「もう夜の10時だ。明日にしなさい!」と言うと、
「俺の勝手だろう?」と言う。
「ダメだ!」「親に食わせてもらっているのに、夜中まで遊びほうけるのは許さんぞ!」「夜中まで遊ぶのなら、自分で働いて稼げるようになってからにしろ!」と言ったが、
「俺は行くよ!」と出て行こうとする。
「お前、今出かけるなら、この家に戻ってくるな!」「ここは俺の家で、子供を育てる家だ」「自分勝手に遊びほうけるような子供を育てる気はない」「自分勝手にしたいのなら、この家に帰ってくるな! 自分で働いて食っていけ!」と怒鳴っていた。

そして二人のやりとりを聴いていた友達に、「おい君も、友達なら夜中に息子を連れ出さんでくれ!」と言うと友達は帰って行った。
残った亮爾は、「判ったよ! 出て行くよ!」と言って3階の部屋に上っていった。
おろおろするお母さんに、「これで一人の子供を失うかもしれない」「私が寝ている内に殺されるかもしれない」「それでも、親として、言うべきことは言わねばならない。やるべきことはやらねばならない」と言って夫婦で親としての覚悟をした。

1時間ぐらい経った時、トントンと階段から下りてきた亮爾が、「お父さん、考えたけど今は一人じゃ未だ生きて行けないので出て行くのは止めるよ!」と言う。これでひとまず一件落着となった。

しかし、3年の夏、7月の初めに父兄懇談会に行ったら、担任の先生が「亮爾君の高校進学は無理ですので、職業訓練学校に行かせて下さい」と言う。
「エ、何ですかそれは?」と、驚いた。君は学校には行っていたので、それほど成績が悪いとは思ったこともなかった。
初めて君の通信簿を見た。ウーン、と唸るしかなかった。私の子が、こんなことがあるのか? と目を疑った。この事実に気がつかず、「放っておいても何時か必ず芽を出す」と思い込んでいた自分の怠慢を責めるしかなかった。

「亮爾、気がつかないで放っておいた私が悪かった。お前は高校に行きたいか?」と、聴いたら「そりゃ~行きたいよ!」と言う。
「ならば、8時~10時の時間を家に居るようにしなさい! 私と勉強しよう!」と約束した。
今まで、夜はほとんど家に居なかったらしい亮爾がこの時間には必ず家に居て、私と勉強することになった。

7月~2月まで、中学1年生の国語、数学、英語の教科書をノートに書き写すことから始めて、中2の2学期分まで進んだところで試験の日となった。
国語の文章を読んで感想文を書かせると、「〇△×○が書かれていました、と書くだけではなく、自分がそれをどう思ったかまで書いてきた」ので、「これはただ読むだけじゃなく、自分の頭でちゃんと考えている!」「見込みがあるぞ!」と思った。
君の成績が悪かったのは、頭が悪いわけではなく、虐めにあったりして、学校という集団の中で「勉強することに集中できなかっただけ」だったのだ、と今でも思っている。

高校入試の日には、「お前の勘は冴えているので、感じた通りに思い切って書いてこい!」「何とかなる!」と言って送り出した。
勉強の時間と知識量が足りないので、合格に近いところまでの力は付いていたので、「亮爾の勘の良さと思いっきりの良さに掛けて、何とかなることを期待できた」からだ。
結果、何とか合格できていた。

これが、君との本気で係わった1回目の勝負だったね。

(3)二回目の勝負

君が高校1年の6月だったか、「俺、あんな学校辞めるよ!」と言う。
「どうしたのだ」と聴くと、「学校の廊下でジュースを飲んでいたら、いきなり先生に10発くらい腹を蹴られた」「生徒を馬鹿扱いして、奴隷のように見る先生の居る学校になんか行きたくない!」と言う。

早速学校に行って先生に会うと、「暴力をふるったことについては何を言われても謝るしかありません」「訴えられてもやむをえません」「申し訳ありませんでした」と謝ってくれた。
私は、この高校は、多少成績の良くない生徒も入学している私立校なので、厳しい校則と先生の厳しい指導で素行の悪い子を抑えている面も多い学校なのだろう、と理解していたし、今回は先生のやり過ぎだったが、「先生が子供の前で謝ったのだから、亮爾には溜飲を下ろして、学校に戻って欲しい」と思っていた。

同席した亮爾に「先生は謝って下さったが、亮爾はどうだ?」と聴いても、「こんな生徒を奴隷扱いする学校には二度と行きたくない!」と、考えを変えない。
家に帰っても話し合ったが、「友達のM君は職業学校に行っているが、校則なんかないし、自由で良い、と言っているので、俺もそっちに行きたい!」と。

「お前の気持ちは判った! しかし、せっかく頑張って入った学校だから、せめて学期末の試験も受けなさい!」「その間に、どうするか考えよう!」と言った。「お父さん、お父さんがそこまで言うなら、そうするよ!」ということになり、何とか踏み留まることができた、とホッとした。

しかし、7月初め「お父さん、試験を受けてきたよ!」「これで約束は果たしたので、もう学校には行かないよ!」と宣言する。
唖然、としたが、もうどうにもならない。

(4)三回目の勝負

夏休み、家族旅行でバリ島に行った。
クラブメッツのホテルに着くと、池でバリバリと音を立ててワニが魚を食っていたり、庭にエスカルゴが這っていたり、と珍しいことばかりで、私と三男の向爾はミニゴルフ場でゴルフ大会に出て、2位になったり、と楽しかった。

君は、昼間は寝ていて、夜になると遊びに行って帰ってこない。
その内、目をキラキラさせて「お父さん、俺、ジーオになるよ」と言う。
「エ、何だそのジーオというのは?」
「ジーオってここのホテルでお客様を遊ばせる担当者なんだ!」「ここ楽しいよ!」「俺、ジーオになるよ!」と言う。

何でも良い、学校を辞めて、遊んでいるだけのお前を見るのは辛い。
「判った!」「だけど、英語ができないとジーオにはなれないだろう?」「アメリカの高校に行くか?」と言うと「行くよ!」と言う。
「人間は、自分の好きなことを仕事にすれば、苦しいことも楽しくなるものだから、他にお前の好きなものはないのか?」と聴いた。
「オモチャは好きだな」「ならば、オモチャ屋も良いじゃないか?」と言うと「それも良いね!」と「じゃ~、日本一のオモチャ屋を目指せば良いじゃないか」。

帰国後、まず、英会話教室に通うことになった。
そして、12月、家族みんなでアメリカのユタ州ソルトレークシティに行って、スキーをした後、3つの高校を訪問して、最後に行ったワサッチアカデミー高校の女性の校長先生とお会いして、その日から亮爾は全寮制の寮に入ることに決めた。
日本の高校と違って、手続きはこれだけで、高校の2学期からという形で受け入れてくれた。アメリカは自由の国と言うが、本当だった。

事前の約束はしていたが、突然の訪問、突然の決定でその夜から泊まることになったのだから、今思えば、無謀とも言えるやり方だったが、その時は亮爾を落ち着かせる為には最善の策と考えていた。
それでも、空港で別れる時、零下20度の寒さに震えながら、お母さんは泣いていたが、君は笑って手を振っていたね。
私はと言えば、「ほとんど英語も喋れない君だから、恐らく3ヶ月と持たないで、君は日本に帰ってくるだろう」と、思っていた。

しかし、君は、何を言っているのか判らない授業に出て、得意のダンスで単位を取り、喧嘩で友達を作り、アメリカに馴染んで、しぶとく生きて、何とかアメリカの高校生になってくれたのだね。
凄いことだ、と思うよ。


長男亮爾と私との勝負の歴史 #② へ続く


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