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【短編小説】不思議な猫
繁華街の路地裏の小さな社の前で寝転ぶ猫。小柄な女性が小さくしゃがみ込んでファインダーを覗いている。近くの喫茶店の従業員らしいエプロンをつけた若い男が彼女の横を不審な目で窺いながら通り抜ける。男に染み付いた料理の匂いが鼻を刺激したのだろうか、猫は鼻をたて興味深そうに目で追う。女も誰かが後ろを通ったのは匂いでわかった。だが、猫のしぐさが一瞬変わるのを逃さなかった。素早くそして機械的にシャッターが押される。飲食店の制服を着た男、彼を追う猫の横顔がフレームに見事に納まる。会心の作だと思った。
「よしっ。今日の仕事おわり!」
三笠めぐみ。二十四歳。のら猫の写真集で成功を収めつつある。
そして、初めての恋愛をしつつある。
高校のときも大学生のときも、彼女は恋愛より自身の精神的な充足を欲していた。友達に影響されて恋愛もしなくちゃと考えもしたけれども、それより心に占める空虚感を何とかしたかった。どうもそれは恋愛でどうこうできそうな物ではなさそうだった。ガラスの床を歩いているような不安が常にあった。
「恋愛なんて私には縁がない」
憧れたことはなかったが、あきらめるつもりでそう口にしたこともある。その時、嫌な感触が舌に残っていたのを覚えている。ごろりと石のような重さがあった。
猛勉強して入った国立大学、名の知れた一流企業への就職。どれも彼女の問題を解決するどころか、深く暗くしたものだった。そこには別の論理、別の思想が働いている集団との接近があり、根が明るい彼女のはじめての挫折、人間関係の挫折を味わわせた。大学に入ったとき、自分の出身校との偏差値の開きが周囲の人間に対する違和感のもとだと考えたが、就職してこう確信した。
たぶん、私は、今、この時代に、フィットしていないかもしれない。
この確信は彼女を戸惑わせた。思いもよらず自分の不安の根源を発掘してしまったからだ。たぶん、小さい頃からうすうす気づいていたのだ。きっとそうだ。彼女は言い聞かせた。そして、身軽になったのを感じた。足元を見ると、もうガラスの上を立ってはいない。心の中は空虚だが安定している。そう、もしかしたら、今の私なら恋愛できるかもしれない。彼女はふと最近駅で見かけた映画のポスターを思い出した。青空をバックに少女が大きく飛び跳ねている。解放と跳躍。今の自分の気持ちを最も表している。そう思った。
***
『これからそちらに伺ってもよろしいですか?
この間のお礼とお渡したいものがあるんです。』
『大丈夫ですよ。何をくれるのかな?
わくわくして待っています。』
私は今から吉成さんのトコに行く。人間用と猫ちゃん用のケーキを持って。
私は吉成さんが好きなのかもしれない。恋愛しているのかもしれない。少なくとも一緒に居たいし、今したいことがそれなのだ。
帰宅ラッシュも過ぎ、人もまばらになった久所(くぞ)駅を降りる。南口の烏山商店街の隅っこにある小さなカラスヤマ英語塾。いつも明かりがついているか確認するのが日課になってしまった。毎年毎年寂しくなる商店街にひとつの灯台が明かりを灯しているようで、少し物悲しく、少し安心。そして、私やヒデ丸みたいな迷い猫がここにたどり着く。
「ねぇ、どうしてそんなにやさしいの?」
顔を合わすたびにそう聞きたくなる。
…絶対にいえないけど。
***
私が吉成さんと出会ったのは約1年前。
私は東京の会社をやめて、実家に戻っていた。辞めたことを電話で伝えたときは親は動揺していたが、帰ってきて顔をあわせた時にはずっと穏やかになっていた。一人娘のことだ、心配になるのは当然。でも、私が頑固なのも思い出したようでもあった。私はすることが無いので、学生時代の一眼レフを持ち出して、ここ五年くらい正月にしか帰らなかった故郷をぐるぐると歩き回った。気のせいかな?木々の緑が深くより鮮やかに感じた。久所駅から二キロほど離れ住宅街を抜けると、明治に整備された用水路が田んぼに水をいれる光景が現れる。私はそこを歩き回る。その時は梅雨が明け、日差しも厳しかったので農家のおばあちゃんみたいなつばの大きな帽子をかぶって、空や木々を撮っていた。最初は楽しかった。自分の身近に小さな宇宙があり、それを発見するたびに喜んではしゃいだ。刻一刻と変化する太陽と雲の関係。風による植物の軽やかな揺らぎと陰影の深さ。どれも学生時代に感じていたものとは理解の深さが全く違っていた。でも、私には相手が大きすぎるような気がした。実際に撮った写真を見ても、自身の感動がそこに投影されてはいないし、そこで撮ったはずだと思った対象の存在性の再現度も低い。違ったものを撮ったほうがいい気がする。吉成さんと出会ったのは写真の相手をかえようと思ったその日のことだった。
「ネェ…」
「なに?」
小さい子供に声をかけられた気がして、振り向くと誰も見当たらなかった。日は暮れ、風が吹いている。私はいつものように写真をとり終えて、帰り道をとぼとぼ歩いていた時だった。住宅街にさしかかっていて、自宅まであと5分ほどだった。
なんだろう?不思議に思っていると、自動販売機の脇からひょっこり猫が出てきた。
「にゃぁ」
黒白の猫だった。鼻の下からおなか、足のさきまでは白毛で、それ以外は黒毛の猫。とってもかわいい。
「ねえ、さっきの、キミ?」
前足をぺろぺろなめている。私に興味あるのか、無いのかわからない。触れようと近づいたら、とたんに立ち上がって行ってしまった。
(なんだかムカつく)
でもスラスラと歩いてく後ろ姿と優雅に伸びた尻尾を見ていると、やっぱりかわいいと頬を緩ませてしまう。
(あっ。そういえば洗剤きらしていたんだっけ)
母に頼まれていたことを思い出し、商店街によっていくことにした。空は夕日に染まっている。時計も七時になろうとしていた。寂しい商店街がさらに寂しくなる時間だ。手作りの看板が目に付いた。カラスヤマ英語塾。
「へーこんなトコに学習塾できたんだ」
ガラス戸から中を覗くとさっきの猫が机の上に寝転がっていた。あっ、アイツ飼い猫だったんだな。私は抗議するかのように猫に視線を送り、怒った表情を見せた。もちろん相手は意に関せず、毛づくろいに精を出している。相変わらずぺろぺろしている。すると、奥から男が出てきて目が合ってしまった。私は慌てて会釈した。首にかけたカメラが不器用にゆれ、いっそう慌てた感じになった。いそいで退散しようと小走りに逃げた。変な顔を見られた。でも、そんな顔見られたからって落ち込むほどの美人でもない。しかし、どんな顔でもやはり恥ずかしいものは恥ずかしい。少し無防備すぎたのだ。私は動揺していた。そそくさと洗剤を買い、一刻も早く帰ろうとした。だけどまた失敗を繰り返す。よせばいいのに、再び学習塾の前を通ってしまった。案の定、さっきの男の人が塾の入口の前に立っていた。さらに悪いことは重なる。彼は私に声をかけたのだ。
私は農家のおばちゃん帽を目深にかぶったのをさらにぎゅっと深くし、返事をする。
「なんでしょうか?」
「もしかして、あの猫の飼い主さんをお知りでしょうか?」
「えっ。いえ」
なんだあの猫、野良なのか。
「ヒデ丸って勝手に呼んでいるんですが。生徒があげるえさを気に入ったみたいでここにいついちゃったんです。もし飼い主がいたらご迷惑をかけていると思っていて…」
悪い人ではなさそうだ。
「…そうなんですか」
私は顔を上げた。男の顔をよく見た。短い髪にメガネをしている。濃いまゆ毛が印象的だ。瞳は猫のように穏やかで、深い陰がある。寂しそうにもみえる。顔のつくりはイケメンと言ってもいいかもしれない。少し古い昭和的なイケメンだが。そして、全体的にほんわかした雰囲気が漂っている。営業的ではない自然で人間的な物腰の柔らかさが今の私と対象的である。
「何かご存知なのかなと思って…」
「いえっ。何も知らないんです。でも、さっき、この猫に声をかけられたような気がして」
今の私はさっきと違う種類の動揺をしていた。だから、真面目に正直にこんなことを言ったのだ。猫に声をかけられたなんて普通言わない。彼の雰囲気が言わせたのだろうか?ますます変な女だと思われる。ガラス戸の向こう側から、ヒデ丸がこっちをじっと見ているのに気がついた。ヤツが憎たらしくなった。私はどんどん追い込まれている。今すぐにでも逃げ出したい。
私が猫をにらんでいる間、男は私の顔を見て、少し考えているようだ。暫くして口を開いた。
「…実はあの子、変なんです」
「変?」
一瞬ビクッとするが、どうやら私のことを言っているのではないことに安心する。
「ええ、特別な『能力』を持っていると言えばいいんでしょうか…」
この日のことを思い出すたびに愉快で不思議な気持ちになる。今から考えるとヒデ丸が演出した出会いだったのかもしれない。
***
次の日、吉成さんはヒデ丸の能力を説明してくれた。
私たちは同じ商店街の駅側の喫茶店「穂の実り」に入った。店の外観は全体的にほこりをかぶったようで、町でよく見かける電飾つきの置き看板がなければ通り過ぎてしまうくらい間口は狭い。私たちは通りに面した唯一の窓側のテーブルに着いた。店内は一枚板の天然杉を使ったカウンター席と、テーブル席が3組あり、昭和な風情がある丸っこいプラスチック製のくすんだオレンジ色のランプシェードが吊らされている。その白熱灯からそれぞれのテーブルに淡い明かりを落としている。店内は外観と違って清潔で非常に落ち着いている。今は正午になったばかり。私たち以外に客はいない。
私はレースのカーテンからこぼれる夏の光に、眩しい目をしょぼつかせながら出されたばかりのコーヒーを口に含んだ。吉成さんは穏やかな表情で私と同様にコーヒーを飲む。
「ヒデ丸は僕にとって招き猫なんです」
「招き猫」
私はただ繰り返した。平日の正午に若い男女が喫茶店で会話をしている。少し罪悪感を感じたけど、吉成さんといるこの空間はなんだか澄み切った空のように平和な気持ちにさせてくれた。子供たちが学校に行っている平日の午前中は学習塾を開いている彼のリラックスタイムである。
「こういうと、なんだか普通っぽいですが。ヒデ丸は意識的にやっているような気がするんです。…そうですね、僕の身の上話から始めましょうか。少し長くなりそうですが」
私は彼の濃く太いまゆ毛に見ほれていた。春の草原を思わせ、ひとつの独立した世界をまゆ毛で表している。私はそこを駆けるウサギを想像した。
吉成さんはサラリーマンを三年でやめたといった。とても悲しそうな顔をして。「同僚とつまらないトラブルが原因でね」と苦しそうに言い、それ以上説明しなかった。彼は故郷の○○○県西部の田町に戻り、子供が好きだったことを思い出す。「子供と一緒ならいやなことも考えずにすむと思った」。英文科卒のこともあり英語専門の学習塾を開くことにした。自分ひとりでやれるくらいの規模で。地元の知人にそのことを話したら、同県相川町久所にあるカラスヤマ商店街の組合員の鈴木さんを紹介してくれた。鈴木さんは、シャッター街となったこの商店街の活性化案を探していた。彼は吉成さんの話を聞き、ただみたいな賃料で空き店舗を貸してくれた。とても幸運だった。この地区は土地が安くここ数年若い世帯の流入は増えているにもかかわらず、客も子供も一駅はなれた商業地に奪われ続けていた。彼はさっそく久所に引越し、中学生相手に塾を開くことにした。英語専門なので、授業料は格安にし、ビラを作って駅前で配った。二週間で5人の生徒が集まった。だが3ヵ月後もその5人のままであった。これでは生活は難しかった。貯金は残り100万ほどあったが、アルバイトをすることにした。隣駅のコンビニのレジ打ちと塾講師の二束のわらじ。ある日、コンビニの仕事もなれた頃、教室に忘れたUSBメモリをとりにいった。コンビニのバイトの後なので深夜になっていた。猫が教室の前であくびをしていた。彼は晩酌用のビーフジャーキーを裂いて分けてやった。猫は夢中に食べた。かなり腹を減らしている。吉成は餌をやったあと後悔した。
「もしかしたら居座れてしまうな」
翌日、彼はいつもの5人の子供たちの前で授業を行った。突然子供たちが騒ぎ始めた。猫が入ってきたのだ。彼は生徒をいなすと、猫を追い出そうとしたが、猫は身をわきまえているかのように、教室の手前で丸くなった。彼はそれを見ると、追い出すのはかわいそうに思った。そもそも餌をやった自分が悪いのだ。そのまま授業を進めることにしよう。
なんだろうか?
教室の空気が違っていた。
生徒は普段よりリラックスしている。それでいて集中もしている。彼らが読む英文も声がはっきり出ていて、指導しやすかった。これはあの猫のせいだろうか?
翌日の授業もそうであった。そして次の日も。あの猫がいると教室の空気は一変した。彼はすべての授業を終え子供たちが帰った後、用意しておいたキャットフードをあげた。
「ありがとうな。お前のおかげだよ」
猫はそんな言葉には耳を貸さず、キャットフードに喰らいついた。
それから生徒が増えだした。今では33人にもなった。教室には14人しか入れないので、時間曜日でわけ何とかやっている。生徒の募集を制限する状況になった。
そして、ようやくだが猫に「ヒデ丸」と名前をつけた。小学生の頃、仲が良かった友達がペットのインコにつけていた名前だという。ちなみに、その友達の名前は忘れてしまったと言って悲しそうな顔をした。
***
「ふーぅ」と吉成さんは息をはいた。
「何年ぶりかなぁ?こんなに自分のことを話したのは」
彼は少し恥ずかしそうに微笑み、ぬるくなったコーヒーをごくりと飲んだ。
「僕は運がよかった」
彼は確かめるように言った。私は彼の話を静かにそして熱心に耳を傾けていた。私に似ている気がした。まぶたを一度深く閉じて考え、言った。
「…今度は私の話をしていいですか?」
「ええ、もちろん」
彼は笑った。私もつられて笑った。
2人とも孤独を抱えていたのがわかった。小さな引力がお互いを近づかせている。
私は左手でその存在を確かめるかのようにカメラにそっと触れてから話し始めた。私はすべてを話した。高校生の頃から抱き続けているあの空虚感と時代とのヅレ以外は。
まだ、話せなかった。それには時間が必要なのだろうか?もっと、深い関係が必要なのだろうか?それとも、死ぬまで秘密にしておくべきものなのだろうか?吉成さんにはまだ生々しい傷がある。私にはこの時代とのズレから生じる「空虚感」がある。2人には秘密があった。それが2人を深く薄暗いところで避けがたく結び付けているような気がした。
「そうだヒデ丸を撮ってください。一枚、教室に飾りたいな」
吉成さんは改めて私がカメラをいつも携えているのを発見すると、写真を頼んだ。
私は快く了解し、二人で彼の塾に向かった。その前におなかが減っているのに気がついた。もう12時を回っている。私たちは吉野庵のそばを食べ、コンビニでヒデ丸のお土産へと猫缶を買った。
「いつもこの時間にいるんですか?ヒデ丸」
「ええ、だいたい居ますが、それまでどこにいっているのか謎です」
塾の前にはヒデ丸が待っていた。私たちが姿を見せると抗議をするかのように短く鳴いた。吉成さんが鍵を取り出し、戸をあけている間、私はさっそく一枚ヒデ丸を写真に収めた。いい感触があった。それから、教室に入って猫缶をあげて、むしゃむしゃ食べるヒデ丸を撮り続ける。その後、私はいつの間にか、集中してしまい、吉成さんをほったらかしにしてしまう。彼は後にこう言う。
「あの時の君は生き生きしていた。僕は驚いて、君の分のコーヒーを持ってずっと突っ立ていた」
吉成さんは2杯分のコーヒーを飲み、その日の授業はずっと胃がたぷたぷしていたそうだ。
「ちょっとした思い付きを言っただけなんだけど、それが君にとっていい転換点になったのを感じ取れて嬉しかったよ」
そう、私はこの日から猫の写真ばかり撮るようになった。そこらに居る猫をハンターのように撮り続けた。そして大量の野良猫写真をどうしようか考え、ブログを作って掲載しだした。半年後、中堅出版社から出版依頼のメールが届いた。
***
「こんにちはぁ」
私はケーキの入った袋と来月出版される私の第2作目の写真集を両手で抱え、玄関マットの上で女学生のように立ちながら、奥から聞こえてくるだろう吉成さんの声を期待した。
「ああ!めぐみさんだね」
まもなく、狭い玄関と教室をわけるパーテーションから姿を現す。
「今掃除してたんです。明日から二学期ですから」
吉成さんはワイシャツを腕まくりし、T字型ほうきとちりとりを持って出てきた。思わずにやけそうになる。彼の一挙手一投足が今の私には何もかも可笑しいのだ。世間ではそういった心理状況を恋心というらしいが、果たしてそれは私にも当てはまっているのだろうか?
「どうしたんです?中に入ってください」
教師の隣に四畳半ほどの事務スペースで私たちはいつも他愛もない話をして時間をつぶすのがお互いのお気に入りだった。吉成さんが淹れたコーヒーを飲み、私が持ってきたお菓子を一緒につつく。それがここ半年間の習慣だった。吉成さんは大の甘党で、女子高生みたいにお菓子好きなのを知って驚いたのはもう昔の出来事だ。私は見本の猫の写真集を渡し、ちょっとかしこまってお礼を言った。
「吉成さんとヒデ丸のおかげです」
「そんなにかしこまらないでくださいよ」
私はちょっと冗談めかして、お殿様に献上するかのようにケーキを差し出した。
「はは。まいったな」
ヒデ丸の姿が見えなく、辺りをきょろきょろ見回した。エアコン下のロッカーの上にはいなかった。事務所ではここが彼の所定の位置なのだ。そこにいないとなると、この時間はだいたい、玄関にある電話台みたいな机の上か、事務所と廊下をわける棚の上で股を広げてお腹をなめているかのどちらか。しかし、そこを通ってきた時彼の姿を見なかった。
「ヒデ丸ですか?」
「はい。あいつのケーキも買ってきたんですよ」
「へー、猫用ですか。そんなのあるんですね」
「結構高いんです」
「ヒデ丸にそんな上品なものの価値がわかるかな」
「ははは。そうですねヒデ丸には似合わないですね」
私は猫用ケーキを冷蔵庫に入れる前に、吉成さんに中身を少し見せた。
「わあ、かわいいですね!ますますヒデ丸には似合わない」
職人が手を込んでつくった猫の顔をしたケーキだ。スポンジには煮干の粉が入っている。鼻にそのにおいが届いた。私はヒデ丸がいないことに気まずさを感じていた。そういえばいつも彼がここにいて、お腹をなめたり、私たちに擦り寄ったりして2人の間を行き来していた。まるでキャッチボールのように彼は私たちの感情を伝達していたのかもしれない。冷蔵庫の戸を閉めると、途端ふたりだけの状況に緊張しだした。私は冷蔵庫を背にして、少し離れた吉成さんの後姿を見た。吉成さんは私の2作目になる「神社猫」を1ページ、1ページ丁寧に眺めている。私は、いつかここでヒデ丸の黒い毛をなでながらこう思っていた。「こういう幸せがずっと続けばいいのに」と。そう思うたびに、世の中の誰かがこう囁くのだ。
「幸せなんていつか終わりが来るもの」
どうして、こんな根拠もない経験則だけで言われていることに説得力が付随しているのだろうか?なぜなの?その慣用句をいうヤツを爪で引っかいてやりたかった。私はいつまでも続くことを願っていた。2人と1匹の孤独を。この満たされた小さな孤独の世界を。
吉成さんはいつまでも戻らない私に気づいて振り返った。私はずっとそこに佇んで、彼の背中を見ていた。
あの声が繰り返す。
『幸せなんていつか終わりが来るもの』
「どうしたの?」
私は少し涙ぐんでいた。
「この写真とてもいいよ。うん、いい」
今言葉を発すれば、止めどもなく感情が流れてしまうような切迫感が私をぎりぎりにまで追い詰めている。吉成さんは不思議そうに立ち上がりこちらに寄ってきた。
「大丈夫?」
私は一歩も動けない。どうして、あんな声に耳をかしてしまったんだろうか?近づいてくるはずの吉成さんが遠ざかって行くような気がした。彼は私が涙ぐんでいるのに気がついた。彼の姿がぼやけ始める。両手で顔を覆い、必死で堪えようとしていた。吉成さんは私の目の前で立ち止まり、少し間を置いて片手を私の腰に回した。大きな体が私を包む。私の何もかもが包まれた。心と体。少しの絶望。少しの希望。ずっとこの体に持ち続けた空虚感もすべて。
世間では今日が最期の夏休みである。私はいつまでもこうしていたいと思った。