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イラストレーションとグラフィック表現

東京オペラシティー・ギャラリーで開催されていた宇野亜喜良展が終了した。会場の混雑ぶりから、相当数の来館者があったのだろう。壁面を天井までうめるほどの空間もあり、膨大な展示作品に圧倒された。今なお制作を続ける情熱もそうだが、表現の多彩さに驚嘆する。

 1960年代から作品に接してきたものとしては、やはりグラフィック作品が気になる。あらためて50年ほどの作品を辿ってみると、印刷によって表現されること、グラフィックに徹してきたことが見えてくる。宇野にとっては印刷されてはじめて一つの作品になる。そのプロセスにこだわっている、原画を描いて終わりではない。ポスターなどは文字も入るために全体のデザインに関わるが、イラストレーションもグラフィック表現として捉えている。印刷インクの発色、用紙との相性、掲載する媒体、掲示される場所、演劇など使用する目的や見るであろう対象も考えられている。たとえば蛍光インクを使ったポスターは、天候や時間、照明によって見え方が変わる。自ら遊び愉しみ、見る人を愉しませてくれる。

 パソコンがデザイン・ツールとして一般化するまでは、イラストレーターにとってもデザイナーにとっても、製版と印刷技術の知識は不可欠だった。最終的な表現が技術から生じる特性と直接結びついていたからである。色分解による写真製版が主流になっても、再現性だけが問題になるわけではない。網点をあえて見せる、網点の形状を変える、インクの色を微妙に変えてみる。創意工夫によって表現は変わる、そこも含めて表現だからだ。版下と呼ばれるスミ1色の原稿に、仕上がりの色などが細かく指定した原稿も今回展示されていた。技術が進化し製版のプロセスが変わっても、印刷によって表現する形式は今でも変わっていない。新しい考え方や手法を取り入れつつも、絵画ではなくイラストレーションにこだわり続ける。宇野が印刷に至るプロセスを愉しむ一貫した姿勢と実験的精神は、むしろ新鮮に思える。

宇野亜喜良展会場 版下原稿

 宇野亜喜良展の会場を巡りながら、明治末から大正、昭和初期に活躍した杉浦非水のポスターを重ねてみた。展覧会に出かける少し前に、杉浦非水のポスターをじっくり観る機会があったからだ。東京国立近代美術館が所蔵する非水の資料は、移動のため都内の倉庫に保管されている。移動前に当時の多色石版印刷技術について意見交換するためだった。

 非水もまた印刷表現、グラフィックにこだわり続けた一人だろう。印刷インクや用紙などに気を配っていたことが細部まで観ていくと伝わってくる。ポスター『三越呉服店 新館落成』(1914・大正3年)では金色と銀色のインクが使われているが、科学調査の結果、金色では真鍮の粉末、銀色はアルミの粉末が検出されたという。日本画では金泥や銀泥はよく用いられるが、印刷インクに金や銀を使うには高価すぎる。代用として真鍮やアルミだったのだろう。刷り上がりの発色を見るために配合なども試行錯誤していたことが想像できる。

 同じ年に『三越呉服店 春の新柄陳列会』を制作しているが、あらためて2枚のポスターを観ると、非水独特の色彩と造形性に引きつけられる。どちらも石版多色刷105cm×77cmの大型ポスターである。非水の石版刷りポスターは初期のものに限られるが、三越に在籍していた頃の『みつこしタイムス』『三越』の表紙と合わせて非水らしさを感じる。渡仏を決意させるに至る、ヨーロッパの芸術思潮を吸収していく過程と、新たなグラフィックを模索していた背景をもっと詳しく知りたくなった。伝統的な多色木版「錦絵」から石版印刷に変わっていく時期に、非水は石版の表現特性をどのように見極め、表現に生かそうとしていたのだろうか。

 非水に対しては、これまで図案、商業美術家という言葉に惑わされていたような気がする。モダンデザインとしてあまり捉えてこなかった。どうしても原弘の視点から見ることが多かった。原の写真やモンタージュを意識したモダンデザイン思考に対して、非水の図案は絵画の応用との捉え方が私の中にずっとあった。

 武蔵野美術大学の前身、帝国美術学校は分裂して現在の武蔵美と多摩美に分かれたが、工芸図案科主任だった杉浦非水らが、新たな学校として設立したのが多摩帝国美術学校、現在の多摩美だ。工芸図案科の大半の学生もそのとき移った。再建にあたって武蔵美の教員として加わったのが原弘だった。以来特色も校風も異なり、学生にも少なからず影響を及ぼしてきた。そんなことも影響してきたのかもしれない。

 昨年7月、川越市立美術館で開催された「杉浦非水の大切なもの 初公開・知られざる戦争疎開資料」展もあらためて非水について考える機会になった。

 『非水百花譜』の原画71枚を初めて観ることができた。木版画で摺られたものと具体的に比較できる。完成した木版画に対して原画は作品にするための下絵でしかないことがわかる。下絵は鉛筆による線画に水彩絵の具で彩色されているが、細部まで描きこまれたものから簡単に色づけされたものまで様々だ。「紫陽花」のように下絵にはわずかな色しかなく、完成作品で微妙な色合いの違いやぼかしが表現されているものもある。

 まさに印刷表現、この場合は木版多色摺りによって作品は完成する。非水の構想は、彫師、摺師と出版者との共同で制作されたものである。江戸以来の「錦絵」制作の伝統がそのまま受け継がれている。

 『非水百花譜』は、1920年から22年(大正9-11)にかけて出版され、石版刷りの『三越呉服店』より6年後になる。すでにカラー写真製版が普及し始めたころであり、当時としては木版は最も古い版式になる。

 『三越呉服店』のポスターと『非水百花譜』は、石版、木版と版式が異なり表現の特徴も違う。当然それぞれの印刷特性を見極めたうえで制作したと思われる。しかし『三越呉服店』のポスターは、サイズはともかく木版摺りでも可能だし、『非水百花譜』は、石版で印刷することも可能だ。あえて木版摺りを選んだことも興味が湧く。いずれにしても、印刷物になるまでのプロセスを大切にしたこと、印刷表現、グラフィックにこだわり続けたことに違いはないだろう。

 『非水百花譜』発刊後、非水は1922年から24年(大正11-14)までパリに滞在し、ヨーロッパの新しいデザイン思潮に直接触れ、その後のポスターなどグラフィック・デザインに発展させていった。アール・ヌーボーやアール・デコの影響を受けながらも、そこには独自のスタイルがある。あらためて、非水が日本の近代デザイン、グラフィックを牽引した一人であったことを再認識している。

宇野亜喜良展から杉浦非水を想い、宇野がほぼ半世紀に渡って印刷表現としてのイラストレーション、グラフィックにこだわり続けていることの意味を考えずにはいられない。

 まもなく板橋区立美術館で「ボローニャ絵本原画展」が始まる。この10年ほどはパソコンを使用する作品も増え、表現性が変わってきた。構想からインクジェット・プリントまで、最終形態までのプロセスに関与することで、100年前と同じようなグラフィックの手法を感じさせる作品も見られるようになった。今年はどんな作品と出会えるのか愉しみにしている。

三越呉服店 ポスター 1914年
下絵と木版画 1920-22年

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