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ノンフィクション「虚ろな革命家たち」(佐賀旭)【世の中をよくしたい。世の中なんかよくならない。】
1972年のあさま山荘事件以来、この国は「政治の絶望」から逃れられないでいる。
自分より20歳若い著者がこの事件と向き合ってくれた。
あの時の若者はなぜ社会を変えようと立ち上がることができたのか。
その若者たちはどうして陰惨な挫折をしていったのか。
そして、今の私たちはどうしてなにもできないでいるのか。
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自分自身が政治に絶望するのは構わないが、人生には絶望できないから苦しい。
政治に絶望するのは構わないが、苦しむ人を捨て置くほどにはなれないから苦しいのだ。
自分が幸せなとき、その幸せに罪悪感をおぼえるのは、自分が世界をよくすることから逃げているからだ。
自分だけがそこそこの人権と食事を保証され、かたや墜落機の下敷きになったり出自で差別されたり政府の隠蔽で自殺に追い込まれる人がいる。
「お前だけ腹いっぱいになって、それがお前の幸せか。」
「単純にお前それ卑怯じゃないか、優しくないよな。」
そういう声が聞こえてくる。
1972年のあさま山荘事件は、政治への嫌悪と社会主義はろくでもないという烙印を残した。
この国は「政治の季節」を通過し、もう世の中をよくするなんてことはカッコ悪くてヤバいやつがやるものになった。ひとりひとりがやるべきことは「自己実現」「スキルの習得」「恋愛」「肯定感の醸成」であり、政治は世襲議員と自民党がやるものになった。
安保闘争も連合赤軍の内ゲバも特別なものではないと歴史を見ていると思う。
フランス革命では敵と味方が代わる代わるギロチンにかけられた。
歴史上、国家の樹立や体制変革は暴力で行われた。
穏便なデモや投票で権力が妥協した事例はすぐに思い浮かばない。
フランス革命からナポレオン内戦での死者数は200万人、戊辰戦争で1万2000人、西南戦争で1万5000人である。
政治なんかにはさっさと絶望するのが正しいのかもしれない。
政治にムキになったり、本当に変革しようとしたら死が待っている。純粋に世の中と向き合おうとする人は心と人生を壊してしまう。
もっと動物的に生きた方がいいのだろうか。犬は仲間の同情などするのだろうか。犬はただ食うことだけで生きてるのだろうか。
人間も今日のてめえのメシの心配だけをしているのが分相応なのか。
とまあ、そういうわけにもいかないよね。
だからといって内ゲバをやるわけにはいかないし、やる気もないのにデモにも行けない。
とにかく二元論な考えに追い込んではだめだと自分自身をなだめる。
オレには何も聞かれず、安保関連文書が書き換えられる。世の中の一員ではないのかもしれない。
世の中をよくしたい。
世の中なんかよくならない。
アンビバレントで適当に生きる。そのことに懸命になるしかない。卑怯(自分本位)で、カッコ悪く(社会的)のふたつを自分の中に共存させるのだ。
歴史を見ていると思う。
変わらなかった権力はない。