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映画『Don't Look Up』感想文ーーもしミンディとケイトに「プレゼン力」があったら…

 2021年12月24日にNetflixで公開された映画『Don't Look Up』をポテチかじりながら鑑賞しましたが、途中からポテチをかじる気分ではなくなり、引きずった笑顔で最後まで観ました。巷でちらほら耳にしたように、この映画はおそらく気候変動問題における人類の取り組みの姿勢に対する皮肉が主題であろう。しかし、それとは別で、息を詰まらせてくるような何かがあった。よくよく考えてみたら、その何かとは、この映画が始終暴露しようとしていた「メディア的コミュニケーションの愚かさ」というものだったと、私は結論づけたい。


(⚠️ネタバレはちょっとあるかもしれません)

メディア的コミュニケーション

 それは、すべての悲劇を引き起こす連鎖の黒幕と言っても過言ではない。この黒幕に関わっているのは、発信者側としての政府・企業・有権者・知識人、そして受信者としての無数の観衆、さらにそこから発信者になっていくネットユーザーとそのさらなる先にいる二次的観衆である。つまり、この黒幕というのは、メディアを介したコミュニケーション、あるいは、メディア的コミュニケーションの構造が内面化された社会である。

 この種のコミュニケーションにおいて、語る人(発信者)と聞く人(観衆)の間に、何かがある。その何かが、常に語る人が語っている生の内容をあしらい、その伝えたいメッセージを遮っている。つまり、メディア(媒介)と自称しつつも、決して摩擦のないなめらかなものではなく、どちらかというとプリズムのように入射光線を屈折させてしまう。逆に考えると、ひとえ“解釈”を入れないと、メディア(媒介)の存在意味自体がなくなるということなのか?

 それはともかくとして、「メディアを介したコミュニケーションあるいはメディア的コミュニケーションの構造が内面化された社会」の住人としての自分は、ディカプリオが演じる主人公・天文学者のランダル・ミンディ博士とジェニファー・ローレンスが演じる博士課程の大学院生ケイト・ディビアスキーの「プレゼン力」には始終冷や冷やしていたし、内心辛い気持ちがあった。

ミンディの「プレゼン」に真面目なダメ出しをしてみる

 6ヶ月半後に地球を滅ぼしてくる彗星を発見したミンディとケイトは、大統領が頼りにならないと分かった後、情報を世の中に公開しようとマスメディアに頼った。それを手伝ってくれるチームも作られ、一発目で全米の大人気朝のニューストーク番組に出演することになった。

 彼らのコーナーになった直後でお茶の間をエンタテイニングすることがお得意な司会者が発したどうでもいい質問はさておき、本題の話題が振られ、ミンディがこのように語り出す。

 「ケイトは…彼女は、すばる望遠鏡で観測中に…人生で二度とない大発見をした」

 ここで司会者は「すばる望遠鏡」というキーワードを拾い、話題を広げようとする。話したいのはこれではない!と思ったのか、今度はケイトがそれを遮って語り出す。

 「私は、爆発する星を観察してたんです。宇宙の膨張を測定するのに役に立てばと……認識できない星を見つけたんです。彗星でした。大型でーー地球に向かってて、衝突は確実かと」

 この一文で出された情報の中で、司会者がピックアップしたのは「星の爆発」の部分であり、それについて「なんかワクワクする」というコメントをする。しかし次も一応、司会者は主人公たちに本題の話を振ったーー「それで彗星の大きさは家を壊せるほどなものなの?

 「ディビアスキー彗星と名づける予定で……直径6〜9キロだから、家1軒どころか、惑星ごと破壊する」

 ミンディは事実を述べて回答する。エンタテイナーの司会者はそこで「あっはっは、それってもしかしてニュージャージーにいる僕の元妻の家も破壊されるのか?」と茶化し、司会者たちの間で笑いを起こさせ、いつものトーク番組の茶番に持っていこうとする。

 このような流れを見たケイトはやがてメンタルが崩壊気味になり、震えた声で叫び出す。

 「ごめん、なぜ分からない?地球が破壊されると伝えているんですよ」

 そこから歯車が狂っていく。アメリカ人が一番見ている朝の番組で、ストレスに耐えきれなくなったケイトは怒りと恐怖と悲しみを露わにしながら「みんな100%死ぬのになぜ分からない!?」のようなことをヒステリックに叫ぶ。もちろんその後、ケイトの歪んだ顔や、口にしていた終末論的物語はネットミームとなった。予想した通りに、「彗星の衝突によって地球が破壊される」という肝心な事実はほぼ取り上げられず、代わりに彼ら二人のパーソナリティネタになり、一躍ネットの有名人になる。

 しかし、見ての通り、彼らが伝えたかった事実は実は非常にシンプルで、「人類を滅亡させる巨大な彗星が、6ヶ月半後に地球にぶつかってくるので、彗星を破壊してこの悲劇を防げましょう」ということだった。ギャグ的な効果を狙った脚本だからこのような語り口になっていると思うが、あえて真剣にツッコミを入れてみると、ミンディとケイトのプレゼンの仕方には、見るに耐えない部分があった。

 まず、彼らの話の中で、いらない情報が多すぎた。「すばる望遠鏡」という固有名詞は具体的すぎたーー人々の思考は固有名詞に引っかかってしまうものなので、話が進まなくなる。「宇宙の膨張を測定するのに役に立つために爆発する星を観察していた」ことや「人生で二度とない大発見だ」という情報も、聞いている司会者とお茶の間の視聴者には関係ない話だし、今回の主題の役に立たない。「爆発する星を観察していた」のような背景の話も、その内容は聞く人にとってはかなり珍しいものなので、そこでまた思考が止まってしまう。「ディビアスキー彗星と名づける予定」という情報をここで出すのはもう論外というのは明らかであろう。

 次に、情報を出す順番がよくなかった。一番伝えたい大事なことは、簡潔に、冒頭で、力強く伝えるべきで、その補足として背景の話を少しだけ具体的にするのは良いが、引用したセリフはどれも、最も大事なことを、一文の最後に淡々と述べられ、逆にその直前の内容はどれも関心を奪うものだった。

 最後に、語る人の姿勢が分かりにくかった。これは、メディアを介したコミュニケーションにおいて最も大事な部分であろう。人々は、話者が語った内容(言葉)よりも、その人が「どう」語ったのかーー希望に満ち溢れた眼差しで語ったのか、深刻で重々しい表情で語ったのかーー顔の筋肉の使い方や目線の置き方、言葉の発し方(強弱やスピード)、身体の動き…人々は、身体による「パフォーマンス」によって作り出される話者の雰囲気で、話の内容の捉え方を判断するのである。

 つまり、身も蓋もない話だが、メディアを介したコミュニケーションはつまるところ「パフォーマンス」なのだそれを「ただ事実を話すだけで伝わる」と勘違いしてはならない。人は言葉の内容で判断をしてはいないのだ。

 しかしこれは、「感情を露わにする」ことでもない。あらかじめ計算された感情の表出はパフォーマンスのテクニックなのだが、話者の整理されていない感情を露わにするのは、観客にとって受け止めきれないものがある。そしてそもそも、この時代は「感情」を嫌うのだ。「(僕たちの文明では)感情は極めて稀に見られる精神疾患だ」という『まどか☆マギカ』のキュウべえのセリフを思い出す。生の感情(ケイトの怒りと恐怖と悲しみ)は「正常ではない」と捉えられ、「心療内科を紹介するよ」とケイトの彼氏すら同僚に同情され、世の中に至ってはその表情の絵が「可笑しい」ので瞬く間にミームと化する。

メディア的コミュニケーションの内面化

 しかし、これは「メディアに出てるんだからパフォーマンスを求められて当然だろう」とたかをくぐってはならない。なぜなら、この時代で生きるわれわれにとって、「メディア的コミュニケーション」は生活の隅々まで浸透している。われわれ一人一人が、毎日しつこくこのようなプレゼン技術・パフォーマンス技術を求められている。そして、このような技術を持ち合わせていない人は、社会の周縁にに追いやられ、排除されるのである。

 『Don't Look Up』の冒頭で、マスメディアに行く前に、ミンディ一行はまず大統領に頼っていた。「多忙」な大統領のため、20分しか時間が取れない中「彗星が地球を滅ぼしてくる」恐ろしさを伝えなければならない。彼はまずこのように大統領に語り始める…

 「大統領。およそ36時間前のことです。博士課程の大学院生ケイト・ディビアスキーが、大きな彗星を発見しました…」(ここで大統領は「まぁそれはおめでとう」と言う)「彗星の直径は5〜10キロで、我々の推測ではオールト雲に属するかと…太陽系の最外縁。そして…ガウス法で軌道決定すると平均的な角度誤差は0.04秒しかない。我々は……」

 先ほど分析した通り、ミンディのこの切り出しは最悪だったのだろう。聞く側と関係のない背景の話から始まり、主旨があやふやで、さらに聞き手にとって馴染みのない専門用語(固有名詞)が並べられていた(ミンディからしては「ただ科学的に説明しようとしただけ」かもしれないが)。

 なので、この1分も足らないプレゼンで、大統領は痺れを切らしてしまった。「いったい何を言いたいのかをはっきり言ってくれ」と。

 ケイトの補足によって話は少しだけ進むが、ミンディはさらに彗星が引き起こしうる絶望的な大災害の予測を語る。

 「“大災害(catastrophic)”という表現では間に合わない。1.5キロの高さの津波が地球を飲み込み……彗星が与える衝撃は広島の原爆の10億倍に相当します。震度はマグニチュード10か11……」

 この内容は、理論上、非常に良くできた「プレゼン」である。なぜならミンディは具体的な数字を提示し、さらに既存の出来事と比較し、その規模を説明しようとした。

 しかしここで、ディカプリが演じるミンディは、先ほどわれわれが分析した三つ目のミスを犯してしまっている。つまり、ミンディの話す表情や身体の動き、息の使い方、それらが全部、彼の「本当」の感情ーー恐怖、焦り、プレッシャー、不安ーーをダダ漏れにしていたからだ。このような感情のダダ漏れは、観衆にとっては受け止めきれない部分があるのは、先ほど述べた通りだ。

 なので、大統領補佐官のジェイソンはここでミンディの話を遮るーー「君の息遣いで気分が悪い」と、ミンディの喋り方に文句を言い始め、噛み付いて離さない。話の腰が一気に折れて、本来彗星による大災害への対策を議論するはずの会議が、ミンディの喋り方への攻撃に変わった。

 ミンディとジェイソンの何往復の言い合いの中で、この状況を打開しようと、ミンディたちを大統領に引き合わせたNASAの“テディ”博士が、ある決めゼリフを投げ込む。

 「大統領。この彗星は、“惑星殺し(プラネット・キラー)”です

 これを聞いて、何秒の沈黙の後、大統領はようやく少し理解した様子を見せる。つまり、その場にいるすべての人にとって、“プラネット・キラー”という標語が刺さったのだ。ミンディが一生懸命話してきた「精確」で「具体的な」内容よりも、ずっとクリアに聞こえる言葉だった

 これは非常に皮肉な話だ。先ほど分析してきた「プレゼン」における三つの注意点ーーいらない情報を削ること、情報の順番の入れ替えで話をわかりやすくすること、そして喋り方や表情や身体のパフォーマンスで伝えることーーこの三つのポイントよりもさらに重要なことが、ここで明らかにされた。

 コピーライティング力だ。コピーライティング力こそが、メディアを介したコミュニケーション、そしてわれわれの生活に浸透しているメディア的コミュニケーションにおいて、最重要な能力である。

社会は執拗にコピーライティング力を要求してくる

 広告的コピーというのは、幾多の情報を短い一文に凝縮し、言語的なものというよりも、非言語的なものを伝えようとする、情動的なスローガンである。例を挙げるまでもないが、たとえば「24時間戦えますか」(栄養ドリンク)「人生は夢だらけ」(保険会社)などがある。

 『Don't Look Up』の中で、“テディ”博士が咄嗟に出てきた言葉、「この彗星は、“惑星殺し(プラネット・キラー)”です」の一言は、紛れもなく素晴らしいコピーだった。二つの単語だけで組み合わされた簡潔なネイミング、彗星がであると瞬時に分かる言葉選び(キラー)、その規模がすぐに目に浮かび、恐怖や怒りの情動を喚起するフレーズ(プラネット・キラー)。

 コピーが必要とされる場面は、映画の中では大統領の執務室というかなり特殊なところだったが、実際、これはどんな会議室でもよくある状況である。すなわち、限られた会議時間の中で、いかに効率的に、正確にーーここでいう「正確」とは、数字的な「正確に」というよりも、情動的な「正確に」ーー内容を伝え、次のアクションにつながることができるのか、という場面は、毎日のように都市の各所で起きている。

 会議だけではなく、仕事の場合は上司への報連相、客先への交渉、メールでのやり取りーーその一つ一つに「プレゼン力」が問われ、「コピーライティング力」が試される。言葉の戦場である。だから、限られた時間の中で、簡潔に・効率的に、正確に、最大限の効果を引き出せるようにーーコミュニケーションしなければならないのである。みんな忙しいしな。

 そしてもちろん、この能力が問われるのはビジネスだけではない。ツイートの文字数は上限140文字、ツイッタープロフィールは160文字。広告の話に戻ると、テレビCMの長さは通常15秒30秒、Youtubeの広告に至っては6秒という規格のものもーーそしてメディアで言うと、新聞紙記事の見出しは13文字以内、WEB記事のタイトルの好ましい文字数は30〜40文字、Youtube動画のおすすめタイトル文字数は28文字ほど……これらの短い文字(あるいは時間)の尺を思うままに扱うことができたら、あなたはインフルエンサーとしてネットでのプレゼンスを得ることができるだろう。

 このように、世の中はことごとく時間と空間の制限を設け、その中で最大限の情報ーーそして情動を、発信者から受信者に伝える仕組みになっている。この構造に私たちはあまりにも日常として慣れすぎている。そして、ほぼ資本主義しか分からない私たちは、お金の循環と経済成長の生態系の一員なのだから、このような時に狂気じみた顔を見せる効率化・合理化・最適化を、当然のことだと疑いもせずにいる。

われわれは「コピー」しか見なくなった

 このような「プレゼン力」と「コピーライティング力」が、すべての人にとって“勉強”すれば身につけられるものかどうかは分からないが、メリトクラシーの社会において、おそらくミンディとケイトは能力不足あるいは努力不足と指摘されるだろう。現に映画の中でミンディは「“メディアトレーニング”が必要だ」と言われているのだから。

 しかし、このようなメディア的コミュニケーションの内面化というのは、もちろんのこと発信者だけに起きている現象ではない。むしろそのほとんどは、受信者ーーつまり、観衆やフォロワーの中で起きている。

 つまり、われわれはもう「コピー」しか見なくなったのだ。能動的にも、受動的にも。WEB記事のタイトル、他人の引用リツイート、Youtubeのサムネイル、街頭の広告ポスターに印刷された大きな文字コピー……キレイに背景と文脈が削り落とされた情報とその中に潜む情動を一口で呑み込み、どれをクリックするか、どれを再生するのか、どの商品を購入するのかを、瞬時に判断する。

 短いフレーズにあらかじめ仕込まれた情動しか読み取らなくなった私たちは、背景や周辺の情報を判断とアクションの効率を下げる副次的なものとしてしか捉えなくなった。それゆえ、文脈を読まなくなったーーいや、むしろ、読めなくなったのかもしれない。

 これは、物理的な障壁と精神的な障壁、両方あるのではないだろうか。SNSの場合、効率的な短文を見せ、それをそのまま拡散させるのがプラットフォームの目的である。そのため、ある程度の情報量と前後の背景が分かるようなコンテクストへのアクセス経路は、何度もクリックあるいはタップしなければならない仕掛けが設けられているーーその途中で広告を強制的に見せるために。

 そしてわれわれはいつしか、背景と文脈に興味を示さなくなったのだ。なぜならーーみんな忙しいしーー、情動の共有とシェアが瞬時にできるフレーズがあれば、文脈なんてなくても、「共感」による一体感と情報拡散によるパワフルな感覚を手に入れられるのだから。これがマスメディアもSNSも扇情的になりがちな原因の一つだろう。短文は事実を陳述するには不十分すぎるし、最も効率的に目的を果たすためには感情を盛り込むしかないのだ。

 『Don't Look Up』の中で、ミンディとケイトは拙いでありながらも、背景と文脈を伝えようとした。しかし大統領にも、メディアにも、世間の人々にも、何も伝わらなかった。その間に隔てているのは、いったい何だろうか。

 映画の後半になると、彼らもやがて、政府の“Don't Look Up”のスローガンに反抗し、“Just Look Up”の政治キャンペーンを始める。街頭で演説しーー演説はプレゼン力とコピーライティング力の集大成とも言える形式なだがーー情動的に人々を動かすためにコンサートまでやったのだ。話題をかっさらう芸能人カップルをキャスティングし、アリアナ・グランデが演じる歌手のライリーに主題曲の“Just Look Up”を歌ってもらってーーこれもまた興味深いところだが、このような状況の中で歌はまさに人々の感情を煽り、プロパガンダを進める恰好なツールなのだ。

 『Don't Look Up』は始終、メディア的コミュニケーションのバカバカしさを見せてきた。この内面化された構造の中にわれわれは日々生活し、そして不条理を経験している。文脈へのアクセス手段と欲望の喪失は、最終的に、コミュニケーションという行為自体を不可能にするだろう。この映画を観て、息を詰まらせてくると感じたものは、きっとこれだったのだろう。

[了]

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