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連載(15):すべての価値を否定する(続き)

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

[能力の価値]

「職業に差別感を抱いてはいけない、ということは分かりました。でも人の能力を認めてやらなくては、奮起が期待できないのではないでしょうか?。人は何か形で認めてもらってこそ、一層奮起するものです。」

「それは職場の地位が上がることで、認めてやれるのではないじゃろうか。それだけではご不満ですかな?。」

「でも実のない肩書だけ与えられ、責任だけを押しつけられて皆が納得するでしょうか?。」

「しかし、貨幣も財産もない奉仕社会で、どんな形で認めてやれというのじゃろうか?。もし何等かの報酬を与えるとしたら、再び狂った競合社会へと発展するじゃろう。なぜそこまで能力を認めてもらいたいのか?、私には解らない。能力というものが何か分かれば、そんなものに拘ることもなくなるじゃろうに・・・。能力とはこういうことなのです。よろしいですかな!。

世の中には同じ仕事をしても、百こなす人がおるかと思えば、十すらやり遂げられない人もおる。何事もテキパキと処理す者がおるかと思えば、ヘマばかりしている者もおる。しかし本当に一生懸命やっているのだったら、それをとやかくいってはなりますまい。もっとも、努力によってある程度の能力差は埋められようから、努力と挑戦心は忘れてはならないが、歴然とした能力差を責めては可愛想というものです。

また能力の優劣は相対的判断によるもので、決して絶対的なものではないはずです。たとえそこで有能者呼ばわりされている人も、他の場所にいったら無能者呼ばわりされないとも限らないのです。この宇宙は広いのです。その広い宇宙の中で能力の自慢をし合っていては、それこそ“井の中の蛙大海を知らず”と笑われてしまうじゃろう。能力のない者が、少しでも能力を向上させようと努力するところに価値があるのです。その意味では、有能者といえども努力と挑戦心を忘れては、大切なものを失ってしまうじゃろう。

また有能者の責務は、無能者の鏡ともならなくてはならないのですから、有能者であればあるほど自分を律し技量を磨いておかなくてはならないでしょう。これは横綱は横綱らしい実力を備え、幕下の手本とならなければならないのと同じで、天の配剤の意味もそこにあるのですから、それを忘れて増長慢になっては下位の者にも負けかねないじゃろう。無能者も、そこに有能者がいるからそれを目標に励めるのですから、引け目を感じたり劣等感を抱くのではなく、目指す大樹として敬うくらいの心の大きさが欲しいものです。

あなたは形で認めてやることは大切だというが、私たちは口にこそ出さないが優秀な人を見ると、心の中で拍手を送っているものです。つまり認めているのです。これは何にも代えがたい誉れではありませんかな?。」

「たとえお金で認めてやれなくても、賞状とか記念品とか、何か別な形で認めてやることはできると思います。そうすれば益々やる気を起こし、より大きな成果が期待できるはずです。」

「それこそおかしな考えです。形で評価しきれない成果を、物や賞状などで認めてやるとしたら、その評価は形(物や賞状)の中に封じ込められてしまい、かえって価値を下落させてしまうでしょう。またその評価をランクで表すとすれば、評価された人たちの中から必ず不満が起き、せっかくの喜びも後味の悪いものとなってしまうでしょう。もしそれが物や形でなく、“よくやったね!”素晴らしい!“あなたは私たちの誇りだ!”と心で讃えてやったなら、それは限りない評価を与えたことになり、その満足感はどこまでも膨らんでいくでしょう。

この地上界には、形で讃えきれないものが沢山あります。にもかかわらず、人はとかく形で讃えようとする。これは評価される側の者にとって、有難迷惑といわねばなりますまい。次のようなこともその類いでしょう。

美しいものを見ると、つい自分の手元に置きたくなるのが人情のようですが、『やはり野におけれんげ草』の句を持ち出すまでもなく、大自然の美しさ(花鳥風月)はその場所にあってこそ輝けるのであって、花瓶や写真の中に封じ込めてしまえば色あせてしまうものです。これも、形に置き換えたがために価値を下落させた一例でしょう。

またこんなこともあります。最近ある新興宗教の教祖が、自分の偉大さを誇示する演出材料として、音響やレーザー光線を利用しているようですが、これもせっかくの偉大さを形の中にすげ替えてしまうことになり、かえってその人物を小者にしてしまうでしょう。まあ小者だからそのような演出をしたがるのでしょうが、見る人の目から見れば滑稽に写るので、そのようなことをしない方が賢明でしょう。大人物はそんな姑息な手段を用いないでも、心ある人たちを十分に引きつけることができるのですから・・・。

このように、大自然の美しさや人の心(行為、成果)を形の中に封じ込めるのは、価値の下落につながりあまり感心したことではないのです。」

「・・・」

[知的な価値]

「それでは、人の頭から生まれてくる知的な価値はどうでしょうか?。それこそ、その人を讃えてやらなければならないと思うのですが?。」

「たしかに、知的な価値は大切にしなければならない財産でしょう。何せ、無限の可能性を秘めた財産ですからね。といっても、私が大切にしなければならないというのは、その知的価値自体であって、生み出した人を特別扱いしなさいといっているのではありません。なぜならその価値は、その人が生み出したものではないからです。」

「えっ!?。」

「物質である脳から、発明などなされるでしょうか?。それを認めることは、コンピューターが発明することを認めるようなものです。

よろしいですか。知的な価値が生み出されるのは、私欲を滅し人のため社会のためと純粋に打ち込んだ時に、インスピレーションとして天から与えられるのです。いいかえれば、宇宙の知恵の宝庫に人の心が触れ、引き出されてくるのです。勿論その宝庫から引き出すには、努力と粋なる心が揃わなくてはできませんから、その人の努力は認めてやらなくてはなりませんが、知的価値そのものは宇宙の知恵の宝庫に眠っていたものなのです。

今日知的価値が金儲けの道具にされておりますが、これは天の心を無視した背信行為といわねばなりますまい。人類が得たこれらの財産は、広く世間に公開し、更に発展させ、人類のため、いやすべての生き物のために役立てるべきでしょう。私はこの知的価値こそ、『永遠の価値』だと思っています。労働者の追及する価値は、この永遠の価値の追及でなくてはならないでしょう。

[量的価値と質的価値]

「では、量的価値はどうでしょうか?。どんな世界であろうと、量が価値の対象にならないはずはないと思うのですが?。」

「0をいくらプラスしても0になるのは、小学生でもわかる計算問題です。」

「どういう意味でしょうか?。」

「タダの労働力がどれだけ集まろうと、どれだけ時間をかけようと、タダはタダにしかならないということです。すなわち、

労働対象(土地や資源)0円+労働手段(機械や道具)0円+奉仕労働力0円=作られた物0円・・・となるのは当たり前だということです。

それに労働価値というものは、単に時間量だけで測れるものでしょうか。たとえば、一瞬の技が大きな価値を生む労働もあれば、じっくりと時間をかけなくては生み出せない労働もあります。

また一時間で一日分の価値を生み出す労働もあれば、残業をしてもなんら生み出せない労働だってあります。労働価値はこのように、単に時間量だけで決められるものではないのです。」

「しかし、工場で働く工員さんや工事現場で働く職人さんなどは、時間で価値を生み出しているではありませんか?。いや、時間で価値を生み出している職業は沢山あります。」

「それは商品価値を生み出しているのであって、使用価値を絶対化させているのとは違うのです。

つまり資本主義経済では、労働を二つの側面に分けてしまうのです。ひとつは使用価値を生み出す労働、もうひとつは商品価値を生み出す労働です。商品価値を生み出す労働は、それ自体が労働力という商品ですから、時間によって価値が生み出されるように見えるのです。要するに、本来使用価値だけ問題されるべきものが、資本主義経済下においては商品価値というもう一つの価値を作りだし、それを売買し利益に結びつけているわけです。

今日資本家は、労働者の売りつける労働力を次のような商品価値に結びつけています。

資本家が得る労働価値(1日八時間)25,000円
労働者が資本家から得る賃金(1日八時間)10,000円
差し引き剰余価値(商品価値)15,000円
(我が国の剰余価値率は約210から260%であるといわれている)

このように資本家は、支払う賃金の何倍もの価値を労働者から得ることで資本を蓄積しているわけです。労働本位制の世界は商品の売買はしませんから、商品価値を問題にする必要はありません。労働本位制で問題になるのは、あくまで使用価値(有用価値)だけです。となると、労働時間が多いとか少ないとかという問題は、まったく無意味になってきます。この世界で問題になるのは、あくまでも労働に向かう動機と姿勢です。

なぜ動機と姿勢が大切かといえば、この世界では何よりも量より質を重んじるからです。量は時間によって生み出すことも可能ですが、質はただ時間だけ過ぎればよいといった労働姿勢からは生まれません。質を生み出すには、世のため人のためといった献身意識と、真心を込めてなす姿勢が不可欠だからです。それではなぜ、この世界では量より質を重んじるのでしょうか?。

相対の世界において物の価値は幻でしかありません。これは相対世界における物の宿命といってよいでしょう。しかし奉仕世界の労働者たちは、それを宿命として諦めてしまうのではなく、質を上げることで少しでも絶対的価値に近づけようとしているのです。物の価値を絶対的価値(永遠の価値)に近づけるには、質の向上は不可欠だからです。ですからこの世界の労働者は、いつも質の向上をめざして励んでいます。おおげさないいかたですが、彼らは全身全霊を込めて質との戦いに挑んでいるのです。なぜそこまで真剣になるかといえば、その戦いは自身の目的(人格形成)とも重なり合うものだからです。

そんな世界に怠け者はおりません。人に責任を転化する無責任な人もおりません。そんな彼らに与えられる報酬は感動です。つまり絶対的価値・水遠の価値イコール、美、感動、喜びだからです。質への挑戦とは、この美と、感動と、喜びへの挑戦なのです。それだけに成果が実った時には、言葉で表しようのない喜びを味わうことができるのです。

量的価値が唯物的価値といわれ、この世界の人たちに嫌われるのは、どんなに量的価値を生み出しても何ひとつ美や感動に結びつかないからです。いやかえって、煩わしさを多く背負ってしまうでしょう。ですから彼らは時間を気にしません。必要な時にはやる、必要でない時にはやらない、徹底しているのです。

こうしてみると、私たちが問題にしなければならないのは、あくまでも精根込めて打ち込む労働姿勢でしょう。その真面目な労働姿勢が新しい価値を生み、また無限の価値を生むのです。」

「では物の価値はどうでしょうか?。世の中には有用な物もあればそうでない物もあります。もしそれも同価値に見よというのであれば、それこそ味噌もくそも一緒にしてしまうことになります。」

(つづく)

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