連載(17):私有財産のない世界
[私有財産とは何か?]
「さて、人間は自然物を何の疑いもなしに私有していますが、本当に私有できる財産がこの世にあるのでしょうか?。
この地上界にあるすべての物は、私たちがこの世で生きている間一時使わせてもらっているだけで、決して私物化してはならないはずです。
肉体は時が来れば地上から姿を消す、ならば肉体ある間のみ借用できれば良いのではないでしょうか?。
人類の争いの歴史は、私有財産の争いの歴史であったといっても過言でないでしょう。
現在でも親の財産分与で子供達が骨肉の争いをしている姿をみますが、これなども前言からいえば愚かな争いといわねばなりますまい。
この世には何ひとつ私物は存在しないと同時に、自分が使用してならない物も何ひとつ存在しないのです。
すべての物は、すべての生き物のために用意されているのですから、それを使用してならないという決まりはないからです。
ただこの世は物質の世界ですから、時間と空間が重なると『ぶつかり合う』という不都合が生じます。
だからぶつかり合わないよう便宜上、Aの物は誰のもの、Bの物は誰のものと、一時区別しているに過ぎないのです。
にもかかわらず人間は、私物として執着を抱くからさまざまな争いが生じるのです。
海も山も川も湖も大地も、すべての生き物の共有物です。
なのに地主の子として生まれただけで、なぜその土地を自分のものとできましょうか?。
それは空気の下に生まれた生き物が、“ここからここまでは自分の空気だ”と主張するくらいおかしなことではないでしょうか?。
ある人はこんなことをいっております。
“もし三人の仲間が、冬山で吹雪のため山小屋に閉じ込められたら、三人がめいめい持っていた食糧は個人の私有からはずされ、三人のものになるだろう。とすると、本来「私有」とはどういうことなんだ!”と・・・。
この人のいうように、私有という形は一時の見せかけであって、あるべき姿ではないのです。
あるのは、必要に応じて使用できる権利だけです。
つまり、その人が生きるに本当に必要であれば、どんな物であっても使用して構わないという使用権を、元々天賦権(天から与えられた当然の権利)として与えられているということです。
なぜなら、すべての生き物は神の御手によって等しく創造された神の子だからです。
その意味において、物は必要な時に借りて使い、必要なくなったら元に返しておけばよいし、返せない場合でも、(食べ物、生活必需品など)それはそれで生きる権利として互いに許しあえば良いのです。
これが生き物の、物質界において守らなければならない基本的掟なのです。
私有財産を許すことによって、いかに多くの矛盾と不合理を生みだしたことでしょう。
その第1は、階級社会をつくり貧富の差を生み出したことです。
生き物の潜在意識の中には、この世の物はみな生きとし生けるものに与えられた共有物という本能的知覚が働いています。
アフリカの原住民の中にはいまだにその名残があり、持たない者が持っている者から物をもらうのは当たり前となっています。
動物もその意識が働いているから、余った餌を隠し持つようなことはしません。
持ては持つほど欲深くなり、手放したくなくなるのは人間だけです。
第2は、社会秩序を乱したことです。
人類共通の生活空間を創造しようとしても、そこに所有者個人の不寛容な思惑が入りそれが許されない。
たとえば、ここに100ヘクタールの土地があったとしましょう。
もしその土地を私有に任せるとなれば、必ず力の強いものが占領するようになり、占領した者の都合のよい使い方をされる。
大きな家を建て、大きな庭をつくり、背の高い塀で囲み、木を植え、橋を架け、道路はまるで迷路のように好き放題に敷かれる。
不動産は動かしがたいものだけに、一旦つくられるとそれが邪魔だからといって簡単に動かすわけにはいかない。
こうなると、少数権力者のために理想とする社会環境は適えられなくなり、多くの人が不自由な生活を強いられることになる。
今日、消防車も入れないほどの狭い住宅街がアチコチに見られますが、これなどはその典型的事例といえるでしょう。
第3は、個人主義を助長させたことです。
人間には潜在意識とは別に、五官からつくり出される顕在意識というものがあります。
その動きの根は欲望ですから、どうしても個人主義に陥りやすい。
私有財産を許すとその欲望は火に油を差したように燃え広がり、個人主義を暴走させることになる。
社会秩序はこうしたエゴイストによって掻き乱され、何ひとつ配在された環境作りがなされないのです。
今日の地球環境の危機も、その大きな要因にこの個人主義の暴走があるのです。
もし個人主義を主張したいなら、出した廃棄物も個人で解決してもらいたいものです。
消費する時だけ私物化し、使用後の廃棄物を社会共有物として放っておかれたのでは地球環境はたまったものではない。
私たちは何か自分に都合の悪いことがあると、すぐに“人権蹂躙だ”“人権無視だ”と騒ぎ立てますが、その騒ぎ立てている人たちは果して全体の人権を守っているでしょうか?。
この世に自分しかいないのでしたら好き勝手に生きたらよいでしょうが、多くの仲間と睦まじく生きていかねばならない人間社会において、自分の行動が社会にどのような影響を与えるか、といった自覚はいつも持っていなくてはならないし、また持つことが人間としての責務でもあると思うのです。
したがって個人の権利を主張する前に、この主張が果して社会全体にどのような波紋を投げかけるか、また全体の福利にどのような影響を与えるか、といった公人の目を常にもち、その良否を確かめた上で主張すべきでしょう。
また周りの人たちも同様に、全体権利を主張することによって個人にどのような影響を与えるか、それを強いることによって個人を窮地に追い込まないか、個人の利害と全体の利害との比重はいかほどか、といったトータル的な判断もまた必要になってくるでしょう。
このように互いに相手の立場になって考えあう時、そこに素晴らしい知恵も生まれてくるでしょう。
最終的には双方の『許し』がすべてを解決するのでしょうが、この『許し』が大きければ大きいほど、平和も大きくなっていくものなのです。
このように人類の歴史は、私有財産制度を許すことによって数々の苦汁をなめてきたわけですが、人類は一向にこの過ちを改めようとしません。
それどころか、ますます私有を容認する傾向にあります。
なぜこれまでして人間は、私有物にこだわるのでしょうか?。
もし本物の財産が何なのか知ったら、これほどまで私有物にこだわらず生きられたでしょうに・・・。
(つづく)