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連載(16):すべての価値を否定する(続き)

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

[物の価値]

「その味噌とくそですが、あなたはどちらが貴重品だと思いますかな?。」

「えっ!?そ、それは味噌だと思いますが?。」

「たしかに、味噌は日本料理に欠かせない調味料として重宝されています。しかし、糞尿だって植物の栄養源になってくれるのですよ。今は石油が採れているので糞尿は見捨てられていますが、もし石油が採れなくなったら糞尿だってきっと見直されるはずです。事実、ついこの間まで貴重な肥料源だったのですからね。」

「でも希少性やエネルギー量からみた場合、やはり物の価値は違うと思うのですが?。」

「たしかに、今の制度下においては違うでしょう。しかし、そのエネルギーは人間が作ったものではないはずです。作ってないものに価値をつけ我がもの顔で売買する、これこそおかしいのではないですかな?。また希少性は、人間のご都合主義で作られた人的なもので、決して物の属性ではないはずです。神はすべての生き物に困らないだけの物を与えたにもかかわらず希少性が生まれるのは、あくまでも人間の私利私欲のためではありませんかな?。」

「でも現実に、金やダイヤモンドのような希少物質が存在するではありませんか?。」

「でも、その物がなかったら人間は生きられないのでしょうか?。」

「生きられないことはないですが、貴重品であることは間違いないでしょう。」

「しかし、その物を貴重品にしているのは人間でしょう。私がいいたいのは、本当に生きるに必要なものに希少性は存在しないということです。

この地球上には多くの命が生かされています。それも神が私たち生き物のために、多種多様のエネルギーや資源を用意してくれているからです。大欲さえ抱かなければ、多くの命が生きられるようになっているのです。とくに私が感心するのは、食べ物の配剤とその特性の素晴らしさです。すなわち、穀物類や根菜類の多種多様さ、繁殖の旺盛さ、栄養価の高さ、また魚類の中でも栄養価の高い種ほど手に入りやすいという不思議さです。私はこの配剤の素晴らしさに、神の愛を感ぜずにはいられないのです。」

「・・・」

「あなたはまだ希少価値にこだわっているようですが、人間がつくった希少価値をよく観察してみて下さい。これほどあやふやなものはないのですよ。

今日高名な画家の絵が、一幅何億何十億という価格で売買されていますが、その価値は決して絵そのものがもっている価値ではないはずです。人間の欲によって、見栄によって、作り上げられた幻の価値でしかないはずです。それがなかったら生きられない、といった価値ではないはずです。あなたは、高名な画家の絵一幅と、水一リットルのどっちが貴重品だと思いますか?。」

「それは?、絵だと思いますが?。」

「しかし、砂漠で孤立してしまえば水の方が役立つのですよ。よろしいですか、ここに釘があったとします。でもこの釘は、金づちがなくては何の役にも立ちません。また金づちだけあっても、釘がなくてはこれも用をなさないでしょう。また釘と金づちがあっても、木材がなくては意味がないでしょう。高級なカメラを見せびらかし、誇らしげに周りの景色を写してみても、そのカメラにフイルムが入っていなくては何の役にも立たないのですよ。冷蔵庫もクーラーも電気がなくては宝の持ち腐れなのです。

このようにすべての物は、条件が整わなくては何ひとつ価値に結びつかないのです。ほんものの価値とは、Aの条件下であろうと、Bの条件下であろうと、変わらない価値をいうのです。そんな価値がこの世にあるでしょうか?。つまり一時空に浮かぶ雲のようなもの、それがこの世における価値の正体なのです。とすれば、物の価値に序列をつけるのはおかしいことになる。もしそこに序列をつけるとすれば、それを作っている労働者にも序列をつけなくてはならなくなり、それこそ今日のような争い多い世の中ができあがってしまう。」

「・・・」

「よろしいですか、先程も話したように、この世は現象の世界といわれるように無常の世界です。どんな物も永遠に形を止どめることはできません。石油にしても、鉱物資源にしても、ましてや人間の造ったお金にしても、摩耗し減価していきます。つまりこの世に存在する物の価値は、一時存在しているに過ぎないということです。それも条件が変われば価値はドンドン変化していく。そんな頼りないものに価値の序列をつけ、その差を貨幣で埋めようとする。そんな愚かなことに人生をかけてよいでしょうか?。命をかけてよいでしょうか?。職業の価値もそうだったように、物の価値も決して無常の世界で見いだすことはできないのです。したがって、揺れ動く価値に囚われ悪いことをするなどは、愚かも愚か大愚かともいえるふるまいなのです。なぜなら、永遠の心が無常の現象に傷付けられることほど愚かなことはないからです。」

「しかし、条件によって価値は変わるとはいえ、自分に利益になると思えるものに価値を求めるのは、この世で生きている人間にとって当然の感情ではないでしょうか?。私たちの目からみれば、今の条件下においては明らかに絶対的価値があるように見えるのですから、いや現実に便益を得ることができるのですから・・・。」

「たしかに効用は認めます。しかし価値となれば別の話です。なぜなら価値は非属性のもので、決してそれ自体単独で存在するものではないからです。」

「でも石油は、それ自体“燃える”という属性があるではありませんか?。いや属性のある有益物はまだまだ沢山あります。鉱物資源や植物資源の殆どがそうでしょう。」

「しかし、ただ燃えるだけでは何の価値もないではありませんか。いやかえって危険の方が大きいでしょう。それを有用な物に変えるには、私たちの労働力が必要ではありませんかな?。」

「でも自然に実っている果物は、それ自体に価値があるはずです。木からもぎ取り、ただ口に入れればすむのですからね。」

「その木からもぎ取る行為は、人間の労働力ではありませんかな。木になっている果物を見ているだけで腹が膨れるのでしたら、その価値の属性は認めましょう。しかし果物を採るにも、魚を捕るにも、資源を掘り起こすにも、みな人間の労働力が必要なのですよ。すなわち物の属性を発揮させるには、どうしても労働力の世話にならなくてはならないということです。

今日私たちは、多くの資源を手に入れることができるようになりました。しかし、昔も今と変わらぬ資源はあったのです。その資源を上手に活用し、有用物につくり替えてきたのは、ひとえに人間の知恵と労働力ではありませんか?。どんなにその物に価値があろうと、それを有用物につくり替えなくては宝の持ち腐れだからです。

最近多くの学者が、資源やエネルギーの枯渇にたいして警告を発しています。つまり、このまま右肩上がりで消費が進めば、近い将来資源やエネルギーは枯渇してしまうだろう、そうなれば文明の火も途絶えてしまうであろうと・・・。この警告はある意味では正しいでしょう。すなわち、資源やエネルギーの大量消費は環境汚染に拍車をかけ、環境面から人類を破局に追いやるだろうとの警告と一致するからです。でも資源やエネルギーの枯渇問題だけに限ってみれば、そう心配することもないのです。というのも、資源やエネルギーは昔から地球上に沢山あったし、今も沢山あるし、末来も沢山あるからです。しかし、いくらあっても人間の知恵や労働力が幼稚なうちは、それを使いこなすことができない。つまり、あってもなきに等しいということです。この言葉は、今の人間にも、末来の人間にも、そっくりあてはまることなのです。すなわち、昔使いこなせなかった資源やエネルギーが今使いこなせるようになったように、今使いこなせない資源やエネルギーもいずれ使いこなせる時代がくるということです。そうなれば、枯渇問題は解決されるということです。その意味では、今日の枯渇問題は単に資源やエネルギーのあるなしの問題ではなく、人間の知恵(技術)と労働力の問題であるということになるでしょう。したがってここでも、本当に価値あるものは物ではなく、人間の知恵と労働力であるというところに行き着くのです。これを技術革新面から見れば、労働の持ち味が一層鮮明になってくるでしょう。

今日技術革新の目覚ましい進歩により、短時間で大量の物が生産できるようになりました。これは生産コストの下落に結びつきますので、当然労働力の再生産に必要な生活材の価格は下落するでしょう。つまり、それだけ労働力の価値が安くなるわけです。平たくいえば、もし資本家に剰余労働時間を搾取されないなら、それだけ労働しなくてすむということです。

今日必要労働時間は平均3時間前後だといわれていますが、(必要労働時間とは労働者の再生産に必要な生活材をつくり出す時間)もし技術革新によってこの時間を2時間なり1時間に短縮することができたら、そして残りの余剰労働時間を社会のため自分のために有効に活用することができたなら、個人も社会もどれほど潤うことでしょう。今日の社会においてさえ、技術革新の威力は私たちに希望をもたらしてくれているのです。ましてや、これが奉仕社会という環境の下で存分にその威力が発揮されれば、今日にみる難問はすべて解決されてしまうでしょう。

これでなぜ物の価値にこだわってはならないか、職業に序列をつけてはならないか、能力にこだわってならないか理解されたでしょう。」

「しかし人類は、そのような制度を本気で取り入れるでしょうか?。」

「必ず取り入れるでしょう。なぜなら、進化した星ではすでにその制度を取り入れ、素晴らしい社会を実現させているからです。」

「待って下さい!、進化した星といわれますと・・・?。ではご老人は、地球以外にも人類が生存しているといわれるのですか?。」

意外な話が飛びだし、私は一瞬面食らってしまった。

「そうです。宇宙には地球と同じような星が数多くあって、そこにも人類が栄えております。進化した星では、今話した経済システムがすでに根づいていて、何ひとつ争いのない世界が営まれているのです。といっても社会の仕組みは、人の意識の高さや科学の発達と共に変化してゆくものですから、終着点というものがありません。その証に、進化した星の中にも未だに経済に足枷をはめられている星もあれば、まったく経済の必要のなくなった星もあります。地球も同じように、人の心の成長と共に社会の仕組みは変わって行くでしょうから、今話した経済の仕組みも、一時的なものとお考えください。」

まさにその世界の人間がしやべるごとく、老人の言葉には威厳が感じられた。私はただただ老人を見詰めるだけだった。一体この老人は何者なのだろうと……。

「今日の地球のように、価値をいちいち秤にかけその差を貨幣などで埋め合っていては、決して他の星のような理想世界は生まれないでしょう。価値の平等化が当然なものとして認められる世界だからこそ、人は欲を起こすことなく真に社会に貢献できるのです。いわゆる迷いと欲は、価値にこだわるから生まれてくるのです。また比較する目からも生まれてくるのです。

『どのような能力の持ち主も、どのような環境下にある人も、法(宇宙の法)の下では平等に扱われるのだから、目にみえる価値に惑わされて欲を募らせてはならない!』、といった考えが人々の心に定着することによって、あらゆる格差は納得のうちに解消されるのです。私たちの目にその法がみえないから、人は価値にこだわり迷いを募らせるのでしょうが、もし愛深い宇宙の法を信ずることができたなら、決して自分のことを高く評価して高慢になったり、低く見積もって劣等感にさいなまれたりなどしないでしょう。

本物の価値というものは目に見えるところにあるのではなく、人の心の中に不定なものとして座しており、それは人それぞれ心の使い方によって輝きを増したり弱めたりするものなのです。要するに、心の使い方ひとつで価値なきものが価値あるものに、価値あるものが価値なきものに変わってしまうということです。私たちがこの世に生まれた目的のひとつに心の修行が織り込まれているのも、こういった理由があるからです。

さて、価値は完全に葬り去られました。この価値否定は、これから話す二つの制度を否定する理由ともなるのです。その二つの制度とは、私有財産制度と貨幣制度です。この二つの制度を否定することによって、理想世界は大きく前進することになるのです。」

(つづく)

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