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連載(68):人類の夜明|人類は何処へ行く「必然性の原理」(続き)
この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。
必然性の原理(前回からの続き)
「失業し家でブラブラしていると、段々と覇気がなくなりこのまま自分は駄目になってしまうのではないか?、と不安になるものですが、これは進化・前進・発展を目指す本能が、そのような不安を誘っているのです。
人間は、何かに挑んでいなければいられないようにできているのです。
一番恐ろしいのは、何もしないことなのです。」
「でも悪いことをするより、何もしないでいる方が無難ではないでしょうか?。」
「悪も“作用”しているからこそ善にも変われますが、何もしないということは、何も変わらないということで、これほど悲惨なことはないのです。
もし本当に何もしないなら、(五感があるので、何もしないではいられない)意識は闇の中に沈澱し、永久に底無し沼で喘がねばならないでしょう。
だから、いやでも泳ぎ続けなければならないのです。」
「それで人間の尊厳が保たれましょうか?。」
「すべての法を包摂した究極の法体が、必然性の原理だといったはずです。
つまり必然性の原理は、因果律を含めあらゆる法則の最上位にあるので、どんなに愚かと思える行為も、どんなに逆向きと思える行動も、作用を及ぼしている限り無意味とはならず、善悪の相互消却を通していつか進化の道に置かれることになるのです。
ただ人間はその中にあって、ある幅をもって生きる自由意志は与えられています。」
「しかし、その意志が法則の枠からはみ出せないのなら、本当の自由意志とはなりえないのではないですか?。」
「自由意志が発揮できるからこそ、逆流したり横道にそれる者も出てくるのではありませんかな?。
その為に苦しんだり悲しんだりするのは、その人の自由意志と行為の結果です。」
「とはいえ、最終的に本流に返ってくるなら、それは作家の意志を忠実に演じる役者と同じで、単に小説の筋道を歩まされている操り人形にしか過ぎません。
すでにこういう筋書で、こういう結果になると書かれた筋道を、私たちはただ歩いて行くだけなのでしょうか?。
私たちは、宇宙心という作家の操り人形なのでしょうか?。」
「しかし、人間にその筋道が分かりますか?。
その筋道が最終的に同じ道に通じているとしても、行く先々に無数の分かれ道があり、その先に人生の無限のパノラマが開けているのですぞ・・・。
その分かれ道を、どの方向にどれだけのスピードで進むか、そこに人の生き方の自由があるのです。」
「・・・?」
「よろしいですかな。たしかに大道を踏み外すことはできないが、その大道の中でどう生きるかは、人それぞれ自由なのです。
人間の尊厳はその中で見いだすべきでしょう。」
「それでは、その流れは一体どんな流れなのでしょうか?。
宇宙には、それ以外の流れはないのでしょうか?。」
(つづく)