『天使/L'ANGE』に見る反復・光と影の語り
前書き
こんにちは。今川と申します。
普段はエンジニア(ざっくり)として働いています。
大学時代、映画(ざっくり)を学んでいたのですが、最近は新生活で忙しく、目に見えて映画館に行くことがなくなってしまいました。
そんな中、知人と映画の話になり、ふっと学生時代のことを思い出してレポートを読み返してみたのですが、それがちょっと面白かったので公開してみようと。
現時点(2023/6/6)で、文章は当時のまま手を入れていません。
その筋ではないので読みにくい部分があるかと思いますが、軽く映画の感想・レビューと思って読んでいただければ幸いです。
前置き(言い訳)はこのくらいにしたいと思います。
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『天使/L'ANGE』に見る反復・光と影の語り
テーマ:シュールレアリスム的要素のある作品について
2021年1月24日
作品名:『天使/L'ANGE』(1982)
監督:パトリック・ボカノウスキー
『天使/L'ANGE』は様々な場面を一つ一つ丁寧に描き、一直線に横並びにしたような作品だ。ショットや被写体も非常に絵画的で、カラー映画にも関わらず白黒で撮影されていたり、色味が黄味掛かっていたりと、リアリティとは対照的な画面構成を成している。螺旋階段から始まり、人形と騎兵の部屋、召使いと主人とミルク瓶、宝石を持つ男、風呂に入るピエロのような男など、まるで実験映画のアンソロジーである。しかしこの作品の全体を見渡すと、所々に共通項が見えてくる。この映画は、人間の持つ非現実的な感覚や無意識下で見える深層的な視覚を表層させているように見える。人の心の中に住む天使の表層である。
人形とミルク壺に引っ張り出される無意識
『天使/L'ANGE』の冒頭は、まさに見るものを無意識の世界に引きずり込む。この作品の持つ大きな特徴として「反復」がある。冒頭に登場する2つの出来事はそのどちらも反復を多用している。
最初に登場する螺旋階段を登った先に、人形と騎兵の部屋がある。人形は天井からロープで吊り下げられ、赤ちゃんのオモチャのように宙をゆらゆらと漂う。そこへ騎兵が椅子から立ち上がり、サーベルを何度も何度も人形へ突き刺す。この行為は様々な角度から、逆再生も使いながら繰り返し行われていく。時折、反動でクルクルと回る人形の影が大きく映る。何故サーベルを人形へ突くのかはもちろんだが、どうして繰り返されるのかという疑問が大きく現れる。
人形の後には、召使いが椅子に座る男性の元へミルク壺を持っていく。このシーンも反復される。召使いがミルク壺を持って直線に歩いていく動きが、いくつかの角度から何度も提示される。そしてミルク壺は主人の前にある机に届けられると、そのまま机からひっくり返って床に落ち、壺は割れて飛び散ってしまう。召使いはこれまた何度もミルク壺を運ぶが、そのどれもはひっくり返り、たまに逆再生し形を戻しながら、あるいはアニメーションや連続写真のように落ちていく過程が一つの静止画にされ、ミルク壺が弧を描きながら破壊されていく。仮面を被り座る男性は、ゆっくりと顔を動かしながらもそれを凝視するだけだ。
人が酩酊状態に入る時、例えば同じことを言ったり、それまでに起きたことを忘れてしまったりする。この2作品の反復には、「繰り返される動作」「逆再生」「認識できる角度」という3点が含まれている。単純動作の反復は飽きるまで続けられるし、現実には起こり得ないような逆再生、固定された画角でのショットはどれも仮想空間を想像させる。人形はサーベルで突いても必ず元の位置に戻ってくる。このぶら下げられた人形という存在そのものが、どこへもいくことが出来ず、反復を象徴しているようにも思える。ミルク壺を持った召使いは、暗がりの廊下を何度も歩いていくが、我々はそれを真上から見ることも横から見ることもできる。またミルク壺が落ちる様を、テーブルから床までの動作全体で見渡すこともできれば、割れるという動きや飛び散る様そのものを上から見ることもできる。その行為を見ることができる仮想空間にいるようである。この映像が流れている間、私たちは人工的なデジャヴュを繰り返させられる。そうして画面を見つめていると、これらがファンタジーの出来事にも関わらず「見た」という経験と自身の記憶が混同され、無意識世界で画面内の世界を感じるようになる。同じ漢字を繰り返し練習していると自分の中に記憶され、刺激がないことで段々と眠くなるような感覚と似ている。
人形と騎兵の部屋を廊下から眺めているショットは、人形が大きく揺れ、騎兵がサーベルをつき切ったその一瞬しか見せてくれない。しかしこの部屋の中を見ようと思うことは、無意識世界へ入り込もうと意識が誘導されているように感じられる。
画面を通過する光と覆い尽くす影
作中に出てくる画面表現はどれも全く異なった試行をしているが、多くのものは絵画や写真など静止画を連想させる。監督のパトリック・ボカノウスキーは写真光学や暗室技術を学び、監督や写真家、画家としても活動している。そのこともあってか、人対人の平面的な構図が頻繁に登場したり、実際に画面が静止した状態で佇んだりすることも多い。これらも非常に興味深い試行だが、それに起因する光と影の表現はこの作品でも重要な点としてあげることができる。
この作品は全体を通してフラッシュ的表現が多い。それは光が画面を通過したり、急にホワイトバランスの白が強くなったり、突然フラッシュによって画面が白飛びしかけたりといったショットに現れる。特に最後のシーンはそれが非常に顕著だ。階段を登る人のような姿は、初め黒く大きな影に飲まれ我々には見えない。しかし一度光が差し込むと、人は影となって浮き出てくる。そして光が強くなり、今度は人影が光に飲み込まれていく。この階段に登場する人影の静止画は、シャッタースピードの影響か、霞がかったような光をまとっている。このシーンは『天使/L'ANGE』を代表するシーンと言えるだろう。
上から差し込む光は、薄明光線の気質を漂わせている。薄明光線は天使の梯子とも呼ばれている。この光を纏った人物は、天使の羽を授かったようにも見える。そして延々と続く階段の先から光が差し込んでいて、そこに向かっているようにも見える。無意識世界に落ちた私たちが作中様々な世界を巡って、最後に階段に到達すると、終盤にかけて現実世界へ向かっているようにも感じられるのである。
無意識世界を観客の内部にもたらした「反復」と、その中でも脳を覚醒させるように差し込んだフラッシュは、まるで夢の中にいたような感覚さえ私たちに与える。映画館という暗がりの中で、闇に包まれた画面とそこに差し込む光は、映画館の箱の中にいる私たちと無意識世界の私たちを同化させている様だ。この作品を見終わって映画館にあかりが灯る時、「私が見ていたものは、本当に夢だったのではないか?」と感じてしまう。そしてその体験は『天使/L'ANGE』が持つモンタージュから生まれる、非常に特異なオーラによるものだと分かっても、この作品が私たちの体験と重なった時、無意識の世界の中で私たちは「天使」を見たのだった。
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おまけ
ここまで読んでいただきありがとうございます。
多分伝わったかと思いますが、私は『天使/L'ANGE』という映画が好きです。DVDも持っています。
ただ、この映画は是非、映画館で見ていただきたいとも思います。
幸い、まだポツポツと上映をしているようです。
この映画を配給されている、ミストラル・ジャパンさんの公式Twitterでは、上映情報もツイートされていますので、是非ご覧ください。
以上