老いと成長、人生の原理
元をただせば「するめスティック」である。テレビ番組で紹介されたのを見て、すぐに購入してしまった。子供の頃から大のイカ好き。食べ始めたら止まらない。
ところが、思い切り噛んだ左側の奥歯がズキリと痛む。虫歯の多さは昔からだが、いつもの感じとどこかが違う。水を含んでも痛くはないし、放っておけば気にならない。
歯医者に行ったら虫歯ではなかった。どうやら歯根が割れているらしい。だいぶ昔に神経を抜いて、かなり脆くなっていたところに、スルメがとどめを刺したかたちだ。
セカンドオピニオンも聞いてみた。それでも判断は覆らない。もはや抜くしかないというので、隣の歯との間をつないだブリッジを作ることにした。
ガッカリである。自分の一部が永久に失われて、次第に人工物に置き換わっていくのは、うら淋しいものである。
いつもよりスルメを強く噛んだのには理由がある。よく噛むことで顎を鍛えたかったのだ。
どうして今さら顎なのか。ある本を読んだからである。『BREATH 呼吸の科学』にこうある。
「『誰もが--何歳になっても骨を成長させることができる』とベルフォーは私に言った。(中略)奥歯で何度も噛み締めること。咀嚼することだ。噛めば噛むほど幹細胞が放出され、骨密度や成長が促され、見た目も若くなり、呼吸も楽になる」
ベルフォーが誰かは忘れてしまったが、肝心なのはそこではない。この本の主張は、呼吸の能力を高めるためには、顎を鍛える必要があるということだ。そして自分は、酸素を取り込む力の強化を、切実に求めていたのである。
久しぶりに受けた人間ドックで、肺機能が「C」になってしまった。説明してくれた医師は、「慢性閉塞性肺疾患(COPD)」という恐ろしげな病名をちらつかせる。追加で撮ったCTスキャンの結果は「軽度の肺気腫と胸膜癒着を疑います」。いいのか悪いのか、よくわからない。
医師によれば、薬を飲むほどではないものの、今後の経過に十分注意してほしいという。少なくとも、放っておけば治る類の疾患ではないらしい。呼吸を、顎を、鍛えたくなっても仕方ないではないか。
しみじみ思った。年を取るとはこういうことか。あちらを立てればこちらが立たない。体に良かれと思ってしたことが、むしろ脆弱な部分を痛めつけてしまうのである。
そもそも年を取るとは、可能性が減ることだとずっと思ってきた。
生まれたばかりの赤子の前には、無数の選択肢が、冪乗の勢いで限りなく枝葉を広げている。ところが成長するに連れて下す様々な決断が、取らなかった方の枝を無情にも刈り取っていく。
かつて青々と茂った選択肢は、みるみるうちに剪定されて、気がつけば見すぼらしい疎林に変わり果てる。そして人生が終わるときに、全ての可能性が潰えるのだ。
今回の一件は、自分に残された選択肢のまばらさをまざまざと見せつけた。
それでも自分には、まだまだやりたいことが幾つもある。
例えば、原稿をもっとうまく速く書けるようになりたい。こんな文面を恥ずかしげもなく公衆の面前に晒すのも、自分なりに新しい表現を編み出す訓練の一環なのである。本当に。
だから、今後も自分を成長させるためには、どうすればいいのか冷静に考えてみようと思い立った。裏を返せば、残り少ない可能性を最大限活かすための妙案を捻出し、相次ぐ不調に沈みがちな自らを鼓舞、あるいは慰撫する試みである。いかにも年初にふさわしい話題ではないか。
この文を書き始めたのが、真夏の盛りだったことはさておき。
老いてなお成長するための大前提は、ともかく焦点を絞ることである。
可能性の大小を問わなければ、選択肢はまだそれなりにある。そこからさらに厳選するのは、成長に相当な労力がかかるからだ。古い癖を正し、新しい力を植え付けるには、若い頃とは桁違いの努力が要る。ただでさえ心許ないエネルギーを分散しては元も子もないので、できることはどうしても限られる。いわゆる「選択と集中」の姿勢で臨まねばならない。
ここでは加齢がプラスに働く。半世紀以上も生きていれば、自分の適性が嫌でも目に入る。成長を目指すとしても自ずとその枠内に収まる。だから、闇雲な「自分探し」に無駄な力を注ぐ必要がない。多分。
毎日少しずつ、時間をかけて取り組むのも肝心である。一気にやろうとしても逆効果であることは、するめスティックに教わった通りだ。
実は自分にはちょっとした成功体験がある。
かれこれ7年近く前になる。取材帰りの私は、電車の座席に腰掛けると尻の筋肉が猛烈に痛むことに気付いた。
その日に参加した研究会で、窮屈なプラスチック製の椅子に、嵌まり込むように座っていたせいだと思った。ところが、何日経っても、どこを揉んでも、一向に良くならない。
いわゆる坐骨神経痛を発症したらしい。
整形外科や整骨、整体など、思いつく限りの手段を試してみた。それでもほとんど改善しない。
それどころか、スポーツ整形外科で有名な先生には「一生の付き合いになる」とまで断定された。「放っておけば悪くなる一方。エスカレーターが下がっていくのと同じ。リハビリの継続はエスカレーターを逆向きに進むことに当たり、それでもようやく現状を維持できるくらい」なのだと。
そこまで言われたら逆に闘志が湧く。 ただし結構な金額がかかるので、いつまでも病院に通うわけにもいかない。自宅でリハビリを続けることにした。
何人もの理学療法士や整体師に効果のあるストレッチやエクササイズを聞き、毎日実行した。風呂にも朝晩の2回浸かり、足腰をもみほぐした。自室には昇降可能な机を導入して、腰を掛けずに作業ができるようにした。
発症後、一年も経たずに会社を辞めたのも、下がり続けるエスカレーターを、どうにか逆に登るためだったと言っても過言ではない。尻の痛みを嫌い、オフィスにあった胸ほどの高さのスチールロッカーの上にノートパソコンを乗せ、立ったままで原稿を書き続ける姿は、きっと後ろ指を指されていたに違いない。
ちょっとした運動でも、何年も続けるとさすがに効果がある。
そもそもの原因と指摘された猫背は随分ましになり、映画一本を座って見たり、長時間のドライブに出かけたりしても、以前のような身を捩る鈍痛は感じない。
調子が良ければ、まるで痛くない時もある。
何よりも日々のストレッチでほぐす筋肉の具合が全然違う。以前ならば辛くて音を上げた動作も、今では難なくこなこなすことができる。
エスカレータを逆に登っているのは明らかである。これも一つの成長だろう。
それだけではない。思わぬ副作用があった。自分史上最高に体が柔らかくなったのである。
立ったまま上体を前に屈める、いわゆる立位体前屈で、指先が床に触れるどうかも怪しかった自分が、手のひら全体がつくほどになった。近頃は床にぺったり座り、足を開いて前屈すると、おでこがつくまで上体を倒せる。膝がちょっと曲がって見えるのは気のせいだ。
この状態を保つために、今でもストレッチは欠かせない。教えてもらった方法に、いつしか自分なりのアレンジが加わり、今では鳩尾ほどの高さの机に踵を載せて腿の裏側を伸ばしたり、片足でスクワットしながらコーヒーを淹れたりするまでエスカレートした。「ながら」の動作にして時間を節約する配慮だが、それでもトータルで1日30分を超える時間を費やしている。
この経験を通じて、わずかでいいから継続することの絶大なる効果を痛感した。まさかこの歳になるまで、そんなことも知らなかったのかと、呆れないでほしいが。
加齢には、いい面もたくさんある。例えば自身の扱い方に、だいぶ慣れてくる。
世の中には様々な健康法やライフハック、仕事術など、多岐にわたる分野のノウハウが溢れている。ただし、そのどれもが万人に有効とは限らない。
私の場合、度重なる失敗を通して、どういう場合は、どうすればいいのか、独自のルールを育んできた。
例えば原稿を書くのに煮詰まったら、電車に乗ると筆が捗る。連載を締めくくる文章を捻り出すために、わざわざ三つ先の駅まで乗って、降りて、とんぼ返りしたこともある。
この手が効かなくても、二の矢、三の矢がある。
まずは近所を散歩してみる。頭を空っぽにしているつもりが、どこからともなく考えが浮かび、だんだん一つにまとまってくるから不思議だ。シャワーを浴びるのにもよく似た効果があって、風呂掃除で代替できる場合もある。
文章を練るのに向く場所、いわゆる三上は、昔から「馬上・枕上・厠上」とされてきた。私のお勧めは「電車、散歩、シャワー」である。
話が逸れたが、こうした自分の操作術を総動員すれば、それなりの年齢になっても、きっと成長を加速できるに違いない。このほか、何事にも鷹揚(無神経)かつ大胆に(図々しく)、焦らず(だらだらと)かつ効率よく(楽をして)取り組めるといった態度の変化も、成熟がもたらす恩恵である。
そして、還暦間近から成長を目指す者には、これら幾つもの利点を超える最大の決め手がある。
残り時間が少ないことだ。
気がつけば、残りの人生が平均寿命の半分を切ってから、だいぶ時間が経つ。改めて計算してみたら、その半分が、もうすぐさらに半分になる。正直怖くなってしまった。
誰もが体感するように、年齢が嵩むほど時間は早く過ぎていく。減り始めた砂時計の様子が目に浮かぶ。
かつてスティーブ・ジョブズは「今日が人生最後の日ならば何をする?」と毎朝自分に問いかけていたという*。最早スティーブが年下になってしまった身には、この言葉が抜き差しならない実感を伴って迫ってくる。
もう本当に後がない。崖っぷちである。諦めたらそこで、試合終了どころか一巻の終わりである。
いや、悲観したいわけではない。期限があるからこそ、馬鹿力を発揮できると言いたいのだ。我ながら、今だに納期が迫るまでやる気が出ないのは情けないが、いざとなった時の集中力はまだまだ行ける。と信じている。
おそらく私と同年代の人間は、多かれ少なかれ同じような実感を抱いているのではないか。「後になって焦らずに、若い頃から取り組めばいい」との意見はもっともだが、ほとんどの人にとって、おそらくそれは無理なのである。仮にその通りにできていたとしても、今ごろは別の望みや悩みに汲々としているはずだ。
どのみち過去を振り返っても、どうすることもできない。後悔の念を断ち切る意も込めて、タイトルに「人生の原理」と加えてみた。
まとめよう。人生の締め切りを睨んで、今度こそ内に秘めた本気を出す。これを今年の抱負としたい。
もちろん無理は禁物である。体のメンテにしろ、文章の鍛錬にしろ、繰り返すが地道に努力を続けるしかない。まずは、するめスティックを優しくゆっくり噛み締めるところから……
……というオチを考えていたら、430gもあったするめスティックはあっという間に食べ尽くされて、追加で買ったもう一つも合わせ、影も形もなくなってしまった。
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