映画興行というコミュニケーション手段の根本的な齟齬について
大仰なタイトルですが、言いたいことはシンプルです。ざっくり書けば、映画の作り手側の意図と、現在の興行方式の間には、大きなミスマッチがあるのではないか。以下、作品のネタバレを含みそうなので、気をつけてお読みください。
『関心空間』を見ました。話題になっていることは承知していましたし、残酷な内容だとは何となくわかっていました。ただし、描かれる時代がいつで、事件が何で、主人公が誰なのかはよく知りませんでした。
鮮やかに切り取られた自然と広大な邸宅の懐で展開する一家の日常を、眠気を堪えつつ眺め続けるうちに、ようやく作者の意図が伝わってきます。人類史上稀に見る悲劇を、現場に隣り合わせの舞台で、凄惨な情景を一切映さずに描いているのだと。主人公の名前が呼ばれて、やっとその仮説に確信を持てました。
ただし、気づいた先も淡々とした描写がずっと続きます。心を劇的に掻き乱す視覚表現はさほど現れません。当然でしょう。登場人物の関心はそこにはないのですから。残念ながら、最初に覚えた倦怠感は、最後まですっきりとは晴れませんでした。まるで自分も、陰ながら虐殺に賛同したかのように。
もちろん音はします。異様な圧をまとった音が。仮に匂いもあったとしたら、本能を直撃したかもしれません。
それが無理だからこそ、あらかじめもっと情報を仕込んでおくべきでした。例えばプロモーション用のこの動画。本当にそれがあった場所で撮影したこと、実在の人物の衣類や住居を借りたこと、ピアノで奏でる楽曲の出所などなど、事前に聞いていたら随分違う体験ができたように思わせる逸話が目白押しです。
だったら次にすべきは、映画館に舞い戻ってもう一度鑑賞することでしょう。豊富な知識で武装した今なら、ずっと深い恐怖を味わえるはずです。
そこまで考えて、ふと我に返りました。この作品って、そもそも複数回の視聴を前提にしてはいないか。もっと言えば、そもそも映画って何度も見てようやく内容がわかるように撮られているんじゃないかと。
常々漠然と思っていたことが、不意に浮かび上がってきた感覚でした。
普段自分の目で見ている光景と、映画の最大の違いは何か。視界の隅々まで、作り手の意図が反映していることでしょう。今作のように、自然な振る舞いを固定カメラで捉えた作風であっても、作者の凝視を逃れた無意味な瞬間は一切ないはずです。たとえ数秒のシーンであっても、制作側は準備、撮影、編集に納得するまで時間をかけることが、少なくとも原理上は可能だからです。
片や見る側は、100分超もの間、画面やセリフの細部にまでずっと注意を払い続けるのはほとんど無理でしょう。「もはや人の集中力は金魚ほども持たない」というのは誤りだったようですが、どんなに面白い話であっても一瞬も気を抜かないのは至難の業です。
自分は耳が悪いせいもあって、字幕がない邦画では、セリフを聞き落とすことがしばしばあります。最近では登場人物の誰が誰だか、なかなか覚えられません。ところが、ちょっとした疑問符が頭に浮かんでも、ポーズや巻き戻しのボタンを押せない映画では、お構いなしに話が進んでいきます。謎が後から解決することもあれば、わからないまま終わることもあります。普段からそうなのですから、作家性の強い、凝った作りの作品では話の流れに乗り損なうと、なかなか復帰がかないません。
だから映画は何度でも見返したいのです。けれども、映画館は一度入ったら1回しか見ることができません。これっておかしくないですか?
わかっています。暴論です。「事前にきちんと調べて、心して鑑賞せよ」。もっともです。「想像力が乏しいだけだろ」。その通りです。「ケチケチしないで、金払ってもう一回見ろ」。ぎゃふん。
それでも言っておきたいのは、作品の複製が可能な表現のうちで、繰り返し体験することに対してその都度課金されるのは、今や映画くらいであることです。音楽でも映像でも、ディスクを買ったら何度でもどころか、月額一定の料金で見放題が普通になりました。もっと言えば、新作の映画も、ちょっと待てばNetflixやAmazonプライムのラインアップに加わり、我が家の大画面テレビで何度でも楽しめます。
でも、やっぱり映画は映画館の大画面で見たいじゃないですか。2度目でも、3度目であっても。というか、待てば済むのであれば、所詮は映画館に勝ち目はなく、いずれ全てがサブスクの動画サービスに取って代わられてしまうでしょう。
そこで思いついたのが、同じ作品であれば一回支払えば何度でも劇場で楽しめる興行形態です。技術上は難なく実現できそうですが、どこかでやってはくれないでしょうか。
そこまで無謀な話ではないと思います。既に米国では既に映画館のサブスクリプションサービスがあります。これとか、これだとか。ただし、見放題というより、料金に応じて決まった本数まで見られるサービスであって、同じ作品を2回見たら2回とカウントされるようです。
日本でもイオンシネマが1日見放題の「ワンデーフリーパスポート」を提供したことがあったとか。思い返せば自分が子供の頃の映画館は一度入ったら1日入り浸ってよかった気も。当時はドリンク飲み放題の特典はありませんでしたが。
1回限りの課金といえば、音楽のコンサートや演劇、ミュージカルにスポーツ観戦もそうです。これらは双方向のコミュニケーションであって、多かれ少なかれ観客の反応が演者にフィードバックされます。だからこそ、その場限りの奇跡の公演や、箸にも棒にもかからない駄作が生まれたりするのです。
対する映画の内容は、毎回毎回同じです。しかもなるべく同じ体験を届けるように劇場側も腐心しています。上映の前に、毎度毎度「No Noise! No Kicking!」などと、なぜか英語で諭されるほどですから。
かつてIMAXで『ラ・ラ・ランド』を見ていたら、突然隣の観客が立ち上がって後ろの人に怒鳴り始めたことがありました。ある理由から感覚が極めて鋭敏な状態だったので、ものすごく強烈な印象が残りました。これはこれで得難い経験ですが、映画に求めていることとは違います。
もちろん一回分の料金で何度も見られてしまったら、興行面で痛手になることは想像に難くありません。個人的には、「映画館に人を呼び戻す効果がある」と主張したいところですが、根拠は全くありません。
そもそも、作品の制作費用が資本の論理に左右される状況にこそ矛盾がある気もしますが、ひとまずそこには目を瞑っておきましょう。
だから情に訴えます。映画が作者の思想・心情を伝えるコミュニケーションの媒体だとしたら、一方的に主張を捲し立てて終わりにするのではなく、何度も意図を確認できる交流の機会を設けるべきだと。すなわち、一回分のチケットで無制限の入場を。