散文感想『数分間のエールを』 そのエールはクリエイターへの激励か、「無産」への叱責か。
本文章は『数分間のエールを』のネタバレをたくさん含みます。また少し批判的な立場に立って感想を書くので、苦手な方は他のnoteを読もう!
数分間の予告で作っていたものが「成功」するか「失敗」するかが物語の分岐になっているだろうと予測して、観に行った。
また感想は書きながら考えたものなので散文になってしまうこと、また一度しか見てないので正確な記述をするのが難しいことを許して欲しい。
以下ネタバレ
まずは概要と解説を映画.comから引用する。
主人公はMVの作成を趣味としている高校生、朝屋彼方。いかにも主人公的な性格で、嫌味も少なく明るい、可愛い男性キャラクターとして描かれている。かわいい。
また主人公の友人、外崎大輔は美大を目指して絵の勉強をしている主人公の相談役のような立ち位置である。彼も絵を描く、つまりクリエイターである。すこしクールな印象で主人公朝屋との良い対比で、良い友人であることがわかる。かっこいい。
織重夕は、主人公の学校の英語の教師。教師になる直前に路上ライブ(?)を主人公に目撃され、主人公が織重に頼み込み、その曲のMVを作らせてもらうことになる。かわいい。
そして、中川萠美はヒロイン……なのだがあまり出番はない。彼女は軽音部で、朝屋にMVを作ってもらっているところから物語が始まる。かわいい。
全編通して、映像としては美しく、音楽とマッチした清涼感のある作品である。いかにも夏っぽい、Hurray!の得意とする雰囲気を纏った作品といった感じ。
映画全体が楽曲を大切にしていて、MV的な作りをしているが、『FLCL』のような勢いで押し切る作品ではなく青春、創作について繊細に描いていた。
素直な感想
全体通して「何かを作っている場面」が良かった。ClipstudioやBlenderといった業界でよく使われているツールがほぼそのまま出てくる。各種ツールを使っているクリエイターらからしたら見慣れた画面だろう。そこは本当に「MVを作っている人が作った映画」で非常に解像度が高い。
クリエイターの苦悩や悩みについて繊細に描いている。途中、主人公の過去で友人外崎にコンプレックスを抱いていたことが明らかになる。こういった、身近な人間に対するコンプレックスや、悔しさのようなものを上手く描いている。
楽曲も舞台場面に合致していて夏と青春の切ないような清々しいような雰囲気を表現しており、映像もそれにきちんと追いついている。流石はMV制作会社といったところだろうか。すごい!!
ストーリーに関してもわかりやすく青春クリエイター物語で、気持ちよく見ることができた。物作りをしたことがある全ての人への肯定の言葉は感動した。それだけでも多くの人が救われたり、激励されたりしたことだろう。
ひねくれた批評(言いたい部分)
上記のことはたぶん、多くの人が同じ感想を持つだろう。
この映画は比較的クリエイター気質というか、何か物を作ることに対して多かれ少なかれ思いを持っている人が見る映画だと思う。しかし、私はいわゆる「無産オタク」である。何もクリエイティブなことはしていない側の立場から映画を評すると、少し違和感を覚えるだろう。(そういった人は対象に映画を作っていないと言われればそれまでだが)
基本的に物語に登場する人物は全員「クリエイター」である。物を作っている人だ。音楽、絵、映像。BlenderやClipStudio、アナログな油絵の具、Gibsonのギターや、アンプ(詳しくないので間違ってたら申し訳ない・・・)。この作品は物を作っている人に対してとても解像度が高い。一方でそれを評する人々、消費者に対してのメッセージはどうだろうか?
顔のない消費者
朝屋が作成したMVの再生数は、映像で確認できるものは200再生程度のものばかりだ。一方コメントには辛辣なコメント「意味がわからない」「気持ち悪い」といったものが目立って映画内で映し出される。
この動画ではずっと登場人物以外の顔や表情は映し出されない。予算やモデリングの関係なのだろうが、本当に表情は映されない。顔がない消費者として映画内で表現されているわけだ。
そこには「無産オタクは存在しないのと同じ、むしろ害悪である」というメッセージと受け取ることができるのではないだろうか。もちろん作者にそういう意図があったとは思わないが。(実際、私は今相当ひねくれた受け取り方をしている)
ここでは「無産」を一切の創作を行わないもの、もしくは自分をクリエイターと自称、自認しない人のことであるとする。
大学受験、教師への道ではダメなのか?
もう一つ、主人公の友人である外崎は美大を諦め、普通に大学受験。先生である織重は音楽をやめて学校の先生をしているわけだ。それを主人公朝屋は感傷的な受け取り方をする。物を作ることを諦めることを残念がる。
なぜだろう?
どうして大学受験や学校の先生はダメで、画家や音楽家は肯定されるのだろう。そこにはやはり「クリエイター以外への差別意識」を感じずにはいられなかった。作っていないものはなりふり構わず批判をする奴だ、と叱責されたような気持ちになった。何も作っていない人間の価値とはなんなのだろうか?
存在しない無産たち
とにかくこの作品、クリエイターじゃない人間は存在しない。学校の同級生、バンドの鑑賞者、母親、その全てキャラクターの表情は一切見えない。「無産」はただクリエイターの評価者や批評家として存在し、(この文章のような)辛辣な評価を下すのだ。
そこには評価者や応援してくれるものへのリスペクトはない。真に応援してくれるものは同じクリエイターだけであり、「無産」は数字として表示されているだけである。
なぜ朝屋のMVは再生回数が少ないのか?
作中で唯一「無産」から評価されていないのが主人公朝屋彼方だ。他の主要なクリエイターは誰かしらから多かれ少なかれ一定の評価を受けている。外崎は県知事賞(だったよね?)をもらい、織重の前座でありながら注目を掻っ攫っていく。(中川は後日談コミックでおばあちゃんに褒められている)しかし何故か、朝屋彼方だけが評価をもらえない。映画の初めの方にMVについたコメントで「好き」みたいなのが付いただけだ。
なぜ彼の作品は映画内評価されないのだろう?
彼が作った作品のクオリティが低い、という設定があるのだろうか?だが、そんな感じはしない。彼が作る作品はワクワクするような、彼自身が楽しんで本気で作っている作品。それこそHurray!が作るような作品として描かれているように感じる。物語では作品の解釈を間違えてこそいるが、あれだけ惚れ込んだ楽曲でそれだ。一般の多くの大衆にはそんなことはわからないだろう。少なくとも「無産」たちにはわからないと描かれるような気がする。
これは「無産」を批判するような意図が汲み取れそうだ。「無産」は見る目がない。「無産」は人が頑張って作ったものを貶すだけ。時々誉めるが、基本的には攻撃的なコメントを残すだけ。そういう人として作中に存在している。
だが、実際にはどうだろうか?少ない再生回数の動画につくコメントは比較的好意的なものが多くないだろうか?「これはセンスがいい」とか「好き」とか「続けてほしい」とか。それは我々「無産」が生み出せる精一杯の応援のエールのはずなのだが、クリエイターには一切届いていない。そう感じさせた。
評価されることの恐怖
この物語が最後に朝屋彼方が作ったMVが1000万再生されていたらどうなっていただろう?「無産」たちは手のひらを返して賞賛し、織重は賞賛されメジャーデビューだろうか。単純な成功として描かれる陳腐な物語ではあるが、悪くはないように思う。
しかし、それを登場人物たちはどう受け止めるのだろうか?「無産」の手のひらドリルを見てどう思うのだろう?実はそこにあるのは「クリエイター」側の攻撃性なのではなかろうか、と思う。「手のひらかえしやがって、無産が」とキャラクターたちに言わせることはできないだろう。今まで攻撃してきた人物が味方になる、そこにある「無産」を見下す気持ちに向き合うことは難しい。露骨な手のひらかえしをするキャラクターを扱うことができなかったのではないだろうか。
朝屋彼方が評価されないことで、作品での「無産」への見下しという内面から出る恐怖から逃げたのではないだろうか?そう受け取ることもできる。再三ではあるが、これは私のような「無産」オタクのめちゃくちゃひねくれた受け取り方である。
織重は教師を続けちゃダメなの?
もう一つの疑問は織重夕は何故教師をやめたのか?ということだ。教師という非クリエイター職(これは教師を揶揄する意図はないが、一般的にクリエイターとは言わないだろう)を続けることに問題があったのだろうか?別に学校の先生をしながら音楽を続けることもできなくはないだろう。(実際に作中はライブハウス行ってたし)
そこにもまた「職業クリエイター」と「非職業クリエイター」への見下し、もしくは忖度のようなものがあるのではないだろうか?何度も言うが別に教師を揶揄する意図はない、立派な職業だ。
まず「職業クリエイター以外はクリエイターではない」という前提に立ってみよう。かなり無茶苦茶ではあるが、実際片手間にクリエイティブなことをするのは骨が折れると思う。実現している人はいるかもしれないが、比較的多くはクリエイティブな職についているだろう。音楽は趣味ではダメなんだろうか?
考えられることの1つは「無産への堕落」を回避したかったということ。織重夕が教師であり続けることは、主人公の説得の失敗であり、物語はバッドエンドになってしまう。しかしそれは本当だろうか?
夢を追い続ける朝屋彼方
夢を諦め手放した外崎大輔
現実と夢を両立させる織重夕
具体的ではないけれど夢の種を持った中川萠美
と言う4人のそれぞれのクリエイティブの捉え方ではダメだったのだろうか?やはりそこにあるのは「無産」になることへの恐怖や蔑視があるように思う。この映画には優しさがない。「クリエイター」か「無産」か、そんな0か1みたいな世界だった。教師を続けることが「クリエイター」としての死として捉えられているような気がしてならない。
「クリエイター」への激励、「無産」への叱責
この映画から強く感じるのは、「創作者への肯定」だ。もちろんそれがこの映画のテーマだし、それはとても強く伝わる。しかしそこから深掘りすると「無産」への叱責を感じずにはいられない。「クリエイター」と呼ばれる人々が厳しい評価を受けることもあるだろうし、それは当然なんだ。だがそれと同じくらいの「賞賛」や「応援」を受けているはずなのに、それはこの物語では登場しない。「クリエイター」しか「クリエイター」を応援できない、そんな閉鎖的な考えがこの作品の根底にあるような気がしてならない。
そして、教師や大学受験という「無産」への道を否定し、認められずにいる。そんな「クリエイターのエゴ」として受け取られかねない映画であると感じた。
他作品での「無産」の描き方
『映画大好きポンポさん』
例えば『映画大好きポンポさん』ではコミック版には登場しなかったアラン・ガードナーというキャラクターが登場する。私はかつて漫画版ポンポさんの感想を見ていると「死んだ目をしていない人間にはクリエイティブさがない、という言説が嫌いだ」というツイートか何かを目にした。その時は「なるほどなぁ」と思ったのだが、映画版でそのアンサーとして登場したのがアラン・ガードナーだ。
彼は銀行員として、主人公の映画制作のために融資を求めるプレゼンテーションを行う。それは「無産」でありながら「クリエイティブ」であるし、作中で私が最も好きなシーンの一つだ。
『ブルーピリオド』
漫画『ブルーピリオド』に登場する先生、佐伯昌子。主人公が所属する学校の美術の先生であり、主人公を芸術の世界へと導く重要な人物として描かれている。
彼女は「教師」であり「芸術家」のような立ち位置の人物だ。実際に趣味で絵を描いているような描写はないが、彼女自身が絵が好きなことが伝わってくる。
このように、織重や外崎についても何かしらの、「クリエイター」ではなく「人間」としての道を作ってあげることはできなかったのだろうか?「クリエイター」に理解がある「無産」が居てはダメなのだろうか?
以上が「無産」のひねくれた感想である。