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ゲーム制作コミュニティのオフラインの交流に宣伝効果はあるのか?

ゲーム界コミュニティのオフラインの交流、技術的には、無意味ではないだろう。情報共有もできる。

でも、そこに宣伝的意味や、重要性ってそんなにあるんだろうか? そこにいる人たちって誰に向けてゲームを発信してるんだろうか?オフラインインディーゲームイベントに来る人は本当に「プレイヤー」なんだろうか?もしくは「宣伝効果のある人」なんだろうか?

正直なところ、私はそう思っていない。そういうところに来る人は同じゲーム製作者だったり、その場でなんとなく通ってあとは全部忘れたり,たまにメディアの人が来てイベントの全体像を伝えるだけだったり。

そう言ったところで探すべきは「情報」と「人材」、あとは、ちょっとの楽しさであってそこで売れるようになる、なんていう錯覚を楽しむべきなんだと思う。

そういった喜びは否定しないし,私に否定する権利はないし,そういったイベントを運営していく人たちにとっては必要な人々だし、私も参加した時は楽しかった。

けれどそれは「意味があること」を意味していない。ゲームという娯楽を作っているならわかるはずだ。「楽しいことが有意義である」とは限らない。

気がついていないなら問題だと思うが、たぶんそれはいわゆる「駄サイクル」なんじゃないかと思う。

『ネムルバカ』4話P.99(kindle版)

「自分の作ったこのゲームがめちゃくちゃ面白い!」と「自分の作ったこのゲームは本当に面白いのか?」は両立していなくてはいけない。自分がつまらないと思ったゲームを世に出さないほうが良いけれど、「このゲームはもっと面白くできる」という気持ちをなくしてはいけない。
自分の創作物はを無条件で愛してはいけない。
それは愛によって育たない。「創作物は自分の子供のようで」というが、子供と違って「それ」が必要としているのは作者からの愛ではなく、基本的に世の中からの需要である,と思う。

もちろん創作は勝負事ではないが、同じ需要のパイを取り合う事は避けられない。新しい需要を開拓することもできるが、それは能力だけでなく時代や世論に左右されるべきだ。もし需要を任意で生み出せるとしたら独裁者くらいのものだろう。

そして、私はつい思ってしまう。滑稽だなぁ、と。自分の需要の外にあるものに理解を示していない分けじゃない、たぶん。だけど、自信満々に「こんなに良いものができてます!」と言うのは憚られる、と言うのは大切だ。

完璧であればそれ以上は無い。
そこに創造の余地はなくそれは知恵も才能も立ち入る隙がないということだ。

BLEACH 35巻

自分の生み出したものを「改善の余地がない」と思った時、それは創作ではなく、自慰行為に近しいものになるだろう。自分の創作が完璧だと思った時、それは創作として堕ちるのだと思う。「これ以上いいものができない」という言い方は「私にはこれ以上どうすることもできない」と言うことなのだと思う。それは無力さであり、ナルティシズムではないのだ。

『ネムルバカ』4話P.94(kindle版)

そしてそれは、私も。

『ネムルバカ』4話P.100

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