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僕は選べなかった

「選べなかった」という言い方がある。「あの時こうしていれば」という言い回しも、そのフレーズの派生形である。

大抵人がこんなフレーズを口にするのは、ミュージシャンになるという夢を捨てたもののかつての知人がステージの上で活躍している様を久しぶりに目にしたとき(大体こういうのはネットニュースやテレビの前だ)、あるいは昔付き合っていた女性が「良い夫婦の日(11月22日)」に結婚したという噂を耳にするときなんじゃないかな。

僕も時々そんな気持ちに浸ったりする。ありのままの生き方をする人を見るときなど、ああ、自分は選択できなかったなぁ、と思う。僕は映画や本が好きで、表現することでお金を稼ぎたいと思っていた。思っていただけだった。だから貧しい生活をしながら原稿用紙とにらめっこすることもなかったし、出版社や映画会社への就活もそれほど身が入らず、気づいたら全く関係のない今の会社で必死に働いていた。堅実でありふれた話だ。

大学の先輩が晴れて弁護士になり、しばらく東京を離れ研修に励むということで飲みに行った。年末の話。発起人は大学の元同級生、というのも4年生で大学を中退し役者を志す友人である(そろそろ「志す」なんて言い方をしなくてもいいと思っているので以後「役者」と呼ぶことにする)。

弁護士の先輩は入学当初から主席クラスの成績だったらしく、やはり貪欲に勉強をしていた。役者の友人も出会った当初から相当おかしな人物で今は演劇の世界にどっぷりと浸かっている。一方僕は、就活を失敗し、普通に大学を半年遅れで卒業した会社員で、彼らと並ぶと意外性のかけらもない生き方だなぁと思う。

だけどよくよく聞いてみれば、彼らも「よし、自分はこの道を選ぶぞ」と手に汗を握りながら、分かれ道のうちの一つを選んだわけでもないみたいだ。「気づいたらそうなっていた」あるいは「そうならざるを得なかった」なんて言う。あまり「俺は選んだ」なんて言い方はしない。

道が元々あったわけではなく、自分が歩いているところに道ができる、なんて詩みたいな人生だ。

この人は選んだ人なんだなぁ、と思っていても、本人たちにはその自覚がなかったりする。じゃあ自分は選べなかった人なのか?と考えてみるが、実はそんなことはない。会社員になる選択をしたわけではなく、気づいたら、普通の会社員だった。ただそれだけの話なのかもしれない。

息を吸って吐いて、時の流れに身をまかせる。そんなことを言いつつも、明日はやってくるし、年は明ける。さて、月曜日からは仕事だ。あけましておめでとうございます。

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井出崎・イン・ザ・スープ
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