「弱者男性」を自称することの強点【強者男性教への反駁】
私は今流行りの「弱者男性」を名乗り文章を書いたり動画を作ったりしている。
その中で下記のような記事を見つけた。
「彼女いない歴=年齢かつ女友達もできたことのない私のような男性は積極的に自らを「弱者男性」と名乗り、アイデンティティとするべきである」
という主張を持っている私は、しばしば、「弱者男性」という言葉に嫌悪感を持つ人がいることに疑問を抱いていた。
そのため、この記事を読むことで、その理由の断片を知ることができたのは良かった。
しかし、その理由の多くに私は納得できなかった。
ので、この記事を引用させてもらい、なぜ「弱者男性」を名乗ることに嫌悪や違和感を持たれることに私が納得いかないかを示し、「弱者男性」を自称することの社会的意義を述べたいと思う。
決して反感を抱いたとかではなく知ってほしいからである。相互理解はとても大切なことだ。
そのため、私のこの反論になおも納得がいかない人があればコメントなど何かしらで問題点を指摘してもらえることが望ましい。
「弱者」という言葉をめぐって
上記のような、手厚いサポートが必要であることを「弱者」の条件にしてしまうと、その線引きに関して様々な問題が生じてくる。
たとえば身体、精神に障害を抱えているが最低限の生活は自分一人でこなすことができる人は「弱者」ではないのか。余裕なく働くことによって何とか自分で生活をまかなえている人は「弱者」なのか。
仮にこれらのケースを「弱者」と認める場合、なぜこれまで社会(学校や職場)の中で孤立し、諸々の能力がないことで足を引っ張り疎まれ、成功体験を得ることがなかったことによって自己肯定感がドン底であり、それを起死回生ひっくり返すために異性からの承認を求めてしまう認知が歪んでしまった男性は「弱者」の要件に入らないのか? と私は問いたい。
これが「弱者男性」の平均的なモデルケースだと私は思う。
精神的に苦しく、努力しても報われない。
というより、人との関わりが少ないことによって認知が歪んでおり、一人では正しい方向へ努力していくことができない。もしくは成功体験の少なさにより自信がなく、学習性無力感に陥ることが多い。
このような人間でも、誰かの付き添い、サポートなどなく生きていくことだけはできるから「弱者」ではないだろうか。
そうだとすれば「弱者」という言葉は非常に局所的な場面においてしか使えないことになる。
かけ離れているだろうか……?
孤独や社会からの疎外感を抱えていることは分かっているのに?
「弱者男性」の多くは誰かが親身に寄り添ってくれなければ様々な問題を生じさせてしまう。
精神が壊れて飛び降り自殺するなどの方向性や、社会に対して実際的な加害(無差別刺傷)などをしたり。
そういった問題を「個人」の問題として片付け、「一定数そういう不良品人間が出てくるのは社会として仕方ないよね、どうしようもない奴らだわ」
これが今の社会だ。
私はこれを肯定しない。だから、そのような風潮を増長せしめるような言論や記事に対して、こうして異議を申し立てていきたい。
「弱者男性」は社会全体としての問題である。傍観者を決め込むことに違和感をおぼえる。
が、普通に生きている人間にとって、「弱者」に一々かまっているのは時間の無駄であり、各々の欲望を日々追求しなければならないため、私が言うようなことは都合が悪いのだろう。
しかし流石に、自己責任だと言っておけばいいみたいな時代も終わりつつあるように思う。〇〇ガチャとか色々流行っているし。国として貧しくなっていけばやがて治安も悪くなってくるだろう。
だからこそ、問い直そう。
・「弱者男性」は「弱者」ではなく、社会がサポートする必要はないものですか?
・「弱者男性」を自称する多くの人が抱える問題は彼らが自ら解決せねばならないのですか?
・それだけの強さがあると思いますか? (それがない、生命として弱さを抱えているからこそ「弱者男性」というのは「弱者」なんですよね。)
・実際問題、一人で解決できずに社会全体へ迷惑をかけるような「弱者男性」は一定数現れてしまいますが、それを社会全体の問題として考え議論していくことが社会適合型の人間としては正しいのではないですか? 迷惑を被られたくないのであれば。(でもそれをせずに自分の快楽や欲望の追求ばかりに時間を費やす。この個人主義的潮流を私は少しずつ変えていく必要があると思う。)
勿論そのように自殺や加害をするのは「弱者男性」だけではない。「弱者男性」はその様々な社会問題の一つに過ぎない。
社会的に追い詰められた者、その予備軍に対して、私たちはどう言葉をかけるべきだろうか。
社会から孤立していることが分かっている不特定多数の集団に対して、「お前たちは弱者ではない。言葉が不適切だ。」
というのが先決なのだろうか。
私はそうは思わないし、「弱者」とはそのように閉じられた意味で理解されるべきではないと考える。
言ってしまえば多くの人間が弱者的性質(弱さ)を持っている。「弱者」か「強者」か。白か黒か、ということではなく。
だからこそ生活の中で、相手を思いやり、時に支える姿勢を持たなければならない。
そのためにもっと気楽に弱さを曝け出す必要がある。そうしなければサポートすることができないから。
一人一人が堂々と「弱者」を自称していくことは世に蔓延る「弱音を吐いてはならない」「諦めたら終わりだ」「人に迷惑をかけてはならない」等の悪習を打破する契機になるように思う。(勿論それだけで解決する問題ではないが。)
その上で、「弱者」とは従来では……、とか、「社会的弱者」の意味から逸脱している、とか、そういう気軽に使うべきでないという声は有害だと思っている。
そしてくだらない定義に縛られることで、言葉の捉え方は人によって異なるからそこで言い争いが起こるし、大きなリソースの無駄だ。
そんな面倒なことはすべきでない。「弱者」をガチガチに定義することはそこから溢れる人は「弱者」ではないから助けない(放っておく)ということにもつながるし。
「弱者」とリソースの問題
そもそも上記のようなことを言う人間は本当に支援が必要であるという「社会的弱者」に対してどれだけの支援をしているのか。
「弱者」と言う言葉が乱立した程度で優先順位やリソースの分配ができない社会なんてどれだけ脆弱だろう。そこはしっかりと日頃から適切な支援順序が問題として議論されている必要がある。
というよりも、たとえ優先度が低い問題であってもそれを無視するのではなく、逆に小さい問題だからこそ早いうちに解決する方向が望ましいだろう。
リソース不足なんてものは私たちが日頃から費やしている時間や資産を本当に「社会的弱者」のために使えればある程度は解決できるだろうと思う。
私はこれからの国家のあり方について、個人的・芸術的に生きるよりも社会共同体的に倫理を育んでいった方がいいと思っていて、まだ拙い構想だが下記のようなものを書いた。
また、倫理というのはマルクスガブリエルなど、徐々に注目を集めているとは思う。今の欲望の時代に違和感を持っている人というのは一定数いて、YouTubeでもそういうことを話している人は見るけれど、どうなのだろう。結局ただのポーズに成り果てるのがオチだろうが、それでも私たちには権力に立ち向かう力がある。
資本主義における勝者が作ったものを消費者である市民が買わなければ、勝者(権力者)は困るのであり、欲望から目覚めていくことが、私たち一人一人のリソースをより良く「弱者」のために使っていける方法だと思う。
私は「弱者男性」を名乗っているが「社会的弱者」を支援する認定NPO法人に毎月少額ではあるが寄付しているし、変に「弱者」がどうとかではなく、一人一人が解決すべき社会問題を見据えて考えられることが必要で、「弱者」という括りに縛られる必要はない。
「弱者」という言葉が縛るものでなく広げるものであれることが理想である。
そのために現代社会に生きる我々には時間が必要であり、過度な儲け主義から脱却し、社会全体として労働時間が短くなることが求められるだろう。
かなり理想を語ってしまったが、次からはもう少し地に足を付けよう。
「弱者男性」をめぐって
私は人が怖い。今のバイト先は簡単な作業系だから最低限の仕事はできているけど、人から何か言われても「あぁ」「はい」が精一杯だし、まだ3月までで辞めることも言えてないし、ちょっとしたミスが何度も反芻される。大学を卒業して4月から一般企業に勤めなければならないことも嫌すぎる。
でも、何だかんだで適応できてしまうだろう。私は人からの評価に過敏で、人の目があると必死に頑張れてしまうから。また、自分のことを「弱者」だと認め、そんな自分を肯定できる柔軟さもあるため、過剰に適応しすぎて適応障害になることもないだろう。(もしそうなりかけたら退職代行で辞める。)
私は18の時に精神科へ行ったが何も診断を貰えなかったし、去年も精神科に行ったが、別の東京の病院で検査を受けましょうみたいなことを言われて、その詳細について電話しますので、と言われていたのに来なくて、今日まできている。
だが、コミュニケーションか苦手で単純に色々なことが生きづらい。多分発達障害グレーゾーンくらいだと思うが、それはあくまで自己診断でありそのように述べることは偽証であるからできない。(叩かれる。)
何も言語化できない、漠然としたものを持ち続けることは苦しい。
何らかの事情(心理的に避けてしまったり、つい先延ばしにしてしまう等)で精神科にかかれずにいる人はどのように自らの弱者性を表明すればいいのか。
そういう人にとって、「弱者男性」を名乗ることで何かしらの立場を得られることは救いになる。
「弱者男性」は彼女ができたことのない、女友達のできたことのない男性が名乗れる言葉だ。
女性の場合、どれだけマイナスな性質を持っていても、女性という時点で無比無類の価値が生じるため「弱者女性」という言葉は一般的ではない。
しかし、それは良いことばかりではないだろう。何かしら障害を抱えていてあまり判断ができない女性が強者男性から道具のように扱われ子を身ごもり、結果殺めてしまうようなニュースは多い。
また、ナンパ(恋愛工学)というのは試行回数を高め、なる早でフリーの愛着障害気質の女性を見つけてきて沼らせるゲームである。
強者男性に都合よく食い物にされてしまう女性、手を差し伸べられにくい女性などを総称的に「弱者女性」と言ってもいいとは思うが、「弱者男性」とは性質が違ってくるため、紛らわしいような気もする。
ともかく、女性の人生はイージーだなんてことはなく、昨今の性加害ニュースを見ていれば、女性も「弱者男性」と同じ強者男性の被害者であることがわかる。
そのことに気づくには時間がかかった。私は、自らの性が「弱者男性」であることに順応しなければミソジニー感情に支配されているままだっただろう。
その上で、私がなぜ「弱者男性」を女性に依存した定義にしているかと言えば、そうでなければ成り立たないから。
「俺は彼女いたことあるけど辛いんだよ」
という人がいれば、それは何かしらの「社会的弱者」であるのだろうが、決して「弱者男性」には当てはまらない。
強者性(強者的な性質)を突き詰めて考えれば分かることだ。
彼女ができたことがあるということは、それ相応の魅力や能力(強者性)があるということだ。
女性は強者性がない男性には決して心を開かず、一緒にいることを許さない。
女性はそのように無慈悲な選別者のように見えるが、それは決して女性の加害性ではないのだ。
これはもっと議論されるべき問題だと思う。社会全体が「強者男性教*」から目覚めなければならない。そのような大局的な問題である。
*下記動画を参照。
ともかく、彼女が欲しいのにできたことがないという条件は、分かりやすく男性を社会的観点で見て有能か無能かに分ける指標としてこれ以上ないものであり、ほぼ例外は存在しないものだと思うためこれを採用したい。私はこれに魅せられたのである。
私は正直、「弱者男性」であることを受容し、安住することで精神的な幸福を実現している今でも、本当に素朴に「彼女ができる=人生の至高でありゴール」だと思っている節がある。
彼女がいたことある人間が更なる自己実現や欲望を追求しているのをみると、もうゴールしているのにサイコロを回してるみたいな滑稽さを彷彿とさせる。
もともと20代までで彼女ができなければ死のうと思って毎日思い悩んでいる日々だったため、彼女を作らなければならないという強迫観念が消えるとそのまま何の欲望も無くなって、私は利他に生きることにした。それ以外になかった。
そのような傾向は1年前くらいから始まり、私「個人」が社会に何を繋いでいけるかを日々真剣に考えているがなかなかに難しい。
それでも、できることをやっていく。その一つがこうして「弱者男性」を名乗る活動だ。
私はカクヨムで自らのエッセイを書いたりもしていて、そこでは「弱者男性」を考察する上で役に立つような当事者目線での認知の歪みの言語化、また、青春恋愛への願望からの解放のプロセスについても同様に言語化を試みている。
私は「弱者男性」のセラピー*を生き方として綴っている。私がこれから社会に出て様々な経験をすることも、その中で「弱者男性」がどのように生きていけばいいか一つのロールモデルを示すものになるだろう。
*自分の感情や思考を書き出したり、自己表現することは一般に治療プロセスとして認められている。その中で、「弱者男性」に合致する者が、何らかの都合により、自らを的確に言い表す「弱者男性」という言葉を奪われることなく、そのままを表現していける必要があるのだ。
私は「弱者男性」であるありのままの自分を愛している。自分を愛せなければ他人も愛せない。
だから、私は少しでも「弱者男性」が無理して「強者男性」になろうと、自己啓発を読んだりや筋トレやナンパをして加害的な人間になっていってしまうことを阻止したい。「弱者男性」で良いんだよって言ってあげたい。
わざわざ世俗的な幸福を追い求めなくても、今あるものに感謝して小欲知足であることを推奨する。それがこの苦しみの世界を支配する権力者たちへの反逆でもあるのだ。
私もナンパ講習や、モテるための理論noteなどを購入していた時期があるが、あれは心を殺す行為であり、緩やかな自殺である。
そもそも私は絶対に人の目を見ることができないからこれは実践自体無理だ。
そんな敗者、持たざる者であっても幸せに気づくことができた。
幸せというのは沢山あって、幸せを掴める人は好きなものを掴みにいけばいいけど、掴めない人は今たまたま近くにある幸せに気づき一息つけばいい。
ナンパ講習みたいなノリで「弱者男性」によるマイドフルネス講習とかわりと需要あるんじゃないかな。どうだろう。
ともかく、私のような幼少期からずっと暗くて友達がいない期間が長かった人は、一念発起して彼女を作ろうとするのではなく、持ち前の弱者的性質で勝負するのだ。人は変われるというのは嘘なのだ。本人のこれまで育ってきた環境にだいぶ依存するのだ。
それに、自分らしくいる方が「男は強くあるべし」なんて固定観念に縛られるよりもよほど楽しい。
これを見て「弱者男性」の要件を満たしている男性は「弱者男性」を名乗って一緒に幸せに生きよう。
決して「強者男性教徒」になってはなりません。「強者男性」に憧れ、「強者男性」を見ることで自分も同化しようとしたり、女性を下に見ることで「強者男性」の真似事をしてはならないのです。
私がこの記事で引用させてもらっている元記事を書いている人は、自覚があるかは分からないが「弱者」でありながら「強者男性教」に貢献してしまっているから悲しい。
ASDとか発達障害とか子供部屋おじさんとか、プロフに書いているのに。
これはインターネットでは本当によく見る光景で、「弱者」ほど「弱者」を叩きがちなのだ。
もっとも、この方は「弱者男性」を叩くという意図は見受けられない。ただ自分の意見を言っているだけで、だからこそ、私はこの方に反感を抱くことはない。他の記事も見る限り、普通に優しい人のように感じる。
けれど、一応多くの人に「弱者男性」について理解してもらうために、残りの納得のいかない部分も引用させてもらい述べていこうと思う。
「弱者男性」は自己責任か。最終反駁
この方は、恋愛や人間関係でうまくいかない原因というのは「個人」に帰結していると考えているようだ。
しかし「個人」とは遺伝子や生育環境、時代の環境などあらゆるものに左右され次第に形成されるものであって、決して独立しているものではない。
そのため、恋愛や人間関係でうまくいかなかった時に、それが自分のみのせいであると思う方がおかしいことで、少しくらいは他者(環境)のせいにするのが道理にかなっている。
しかし社会はそれを認めない。成功者(強者、権力者)に都合が悪いからである。
つまり、環境要因を認めてしまうと、非成功者たちからの尊敬を集められない。
「別にあの人がすごいわけじゃなくて、たまたまそういう環境に生まれただけだよね。努力だけがあの人をあの地位たらしめているわけではないよね」
ということになると困るから。支配がしにくい。
また、このような潮流が一般になってしまうと自己啓発、成功者の自伝があまり売れなくなるだろう。
だからこそひた隠しにされていると考える他あるまい。
人間はどうしても、強くありたいと願ってしまう、強さに憧れる習性があるため、
「社会や他人のせいにすることはみっともない」「甘えるな」「努力する向上心を持たないものはクズだ」みたいな妄言に焚き付けられてしまうのだ。
そうして努力主義の蔓延により社会は「弱者」に冷たくなり、個人主義化してまとまりにくくなることで「強者」に反旗を翻さぬように私たちは支配されている。
恋愛に関しては必ずしも社会が解決できるものではなく「個人」でなんとかするしかないという、この末法の世界においてあまりに一般的な思想だが、
これは弱肉強食的野生への回帰であり、新自由主義の無条件肯定である。
恋愛格差は努力できない者の問題であり、努力できる者、持てる者が自由に総取りするべきであり社会はそこに介入すべきではない、のだろうか。
仮に社会に転嫁している時間を努力に充てたとして、それでこの不均衡が変わることはない。彼女できない男性はどうしたってできない。
それは詐欺のようなものだ。
「努力すれば(クジを引けば)当たるかもよ。努力しなければ(引かなきゃ)当たらないよ」
と言って、最初から一等入ってないみたいなことを社会全体でやる行為だ。集団幻想から解けなければならない。
「そんなことを言うのなら社会全体として「弱者男性」に女性をあてがえとでも言うのか? 旧来的なお見合い制にしろと? もしくは漫画『恋と嘘』のゆかり法みたいにするのか?」
そんなことは言わない。ただ、「強者」は「強者」の役割を、「弱者」は「弱者」の役割を全うできる社会が望ましい。
夢を見させて「弱者」を歪ませることをやめてほしいのだ。
自らの問題と社会問題というのは明確に区別できるようなものではない。
「個人」が社会の影響から逃れることができないものである以上、社会問題でないなんてことは言えない。それは社会全体による責任逃れであり危険な考えだ。
「弱者男性」が一つの潮流として出てきた時点で、社会に生きる者として多くの人が考えねばならない。それを受けて、より良い社会にしていくには一人一人がどうすればいいのかを。
それもせずにリソースの心配はおかしい。
適切な方法とは?(適切とは誰にとっての適切なのか?)という問い。「強者」だろうか?
「弱者男性」にとっては今起こっている「弱者男性」ムーブメントはわりと適切な方法だと思う。
おそらく他の「社会的弱者」にとって適切ではないという意見だろうが、単なるリソース配分への危惧であり勝手な想像に過ぎない。「弱者男性」が名乗られることでリソース配分が乱れるという明確な根拠がない。
それよりも「弱者男性」を名乗ることは「個人」で見ても社会的に見てもメリットが大きいことを示してきたつもりだ。
「弱者」という言葉については「「弱者」という言葉をめぐって」にて再三語っているから割愛。
支援の本質とは何か。それは「弱者」の序列も付けられないほどの社会において、どこまで果たされるものであるのか甚だ疑問である。
"本当に"支援が必要な人とはいったいどんな人なのだろう。言葉の対象をそぎ落としていった先に何があるのか。
弱者(弱い者)が弱さを曝け出し自分らしく生きれる社会が望ましいと私は思う。
そのために私は「弱者男性」を自称し、「弱者男性」としての生き方を実践していきたいと考えている。
幼い頃から周囲と馴染めずにある程度歳を重ねてきてしまったのなら、その弱さ(社会不適合性)はもはや自分らしさであり、アイデンティティであるから、それを無理に変えようとせずに受け入れ愛してあげる必要がある。
そうしていった先に、きっと心から大切できる人、物などを見つけられるはずだ。
くどくど語ってもう9000字を超えてしまったのでこの辺りでやめておこう。
これは私、ゆっくり弱者男性のセルフイントロダクション記事として良いものになったように思う。
ここまで読んでくださってありがとうございます。