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医療における「Less is More」

年末年始の連休、この時期にしては珍しく急患のコールがほとんど鳴らず、妻と2人で穏やかな時間を過ごした。まるで新しい1年に向けて、妻とじっくり向き合う時間を用意してくれるかのように。


妻と自然の中を散策しながら(僕にとって一番マインドフルネスな時間)、今後の「目標」について考えてみた。僕は気分で動く方だから、目標設定なんて「かたい」ことは好きじゃないけど、2021年を迎えるにあたってはそれがとても有意義な気がして。


目標設定をするにあたり、幾つかの本を読んだり、所属するコミュニティの知恵を借りて、僕の中でいくつかのわくわくしたキーワードが生まれた。それは、「風の時代」「Less is More」「価値の最大化」。


「土の時代」から「風の時代」へ

最近知ったことだけど、占星術的に、2020年までは「土の時代」、2021年からは「風の時代」らしい。ちょっとしたニュースにもなったり、話題の本で取り上げられているから、聞いたことあるという人もいると思う。


だいたい220年毎に「風」→「水」→「火」→「土」と時代の潮流が変わり、その度に大切とされる価値観も変わる。その大きな節目に今生きていると考えると、僕も何か特別なことをしたいという気持ちになった。「風の時代」に大切とされる価値観が、今まさに自分が求めている生き方と大きく重なる気がして少し興奮した。


これまでの「土の時代」で大切とされていたのは、目に見える「もの」やお金、安定、職業だった。これからの「風の時代」で大切とされるのは、場所にとらわれない生き方、創造性、精神、人との繋がり、センスや閃きなどである。


話題図書の一つ、『「風の時代」に自分を最適化する方法』を読むと、歴史を振り返りながらなるほどな〜とうなずくものがあった。この200年で、物質的な豊かさから、精神的な豊かさへ世界の価値観はシフトしている。


「風の時代」における「医療」のあり方

この時代の移り変わりを、医療の世界で眺めてみると、今まさに大きな時代の節目にいる気がする。これまでの「土の時代」において、病気は遺伝子レベルまで細分化され、目に見えるものととして扱いやすくなり、それぞれの病気に特化した治療法が開発され、医療の専門化が進んだ。


一方で、高齢化が進み、マルチモビディティ(1人の人が複数の病気をもつこと)が当たり前となり、医療の「複雑性」や「不確実性」が増え、必ずしもEvidence-Based Medicine(根拠に基づく医療)で解決できない問題が多くなってきた。


「土の時代」から「風の時代」への時代に合ったライフスタイルの変化が必要であるように、医療も時代に応じたパラダイム・シフトが必要だと思っている。これまで疑う余地のなかった「病気」や「治療」、「健康」という概念の定義自体を、見直す必要があると僕は思っている。


そもそも「病気」は、科学が扱いやすいよう、人のもつ物質的に良くない状態を「ラベル化」したに過ぎない。「健康」も、「病気」に対するアンチテーゼとして「病気がない状態」というイメージが強い気がする。


医療におけるパラダイム・シフトとは

「病気」という言葉が僕はあまり好きじゃない。「病気」と言うと、その「人」を抜きにした物質的なイメージがつきまとう。でも本来、「病気」はその人のもつライフスタイルや精神と深く関係していて、家族や地域社会の影響を強く受けており、その「人」なくしては語れない。


したがって、本来の「治療」も「病気」に対してだけでなく、その人の生活や悩み、家族背景も含めた、包括的、統合的なものでなければならないと思っている。


地域で家庭医をしていると、「病気」と呼ぶにはまだ早い、「未分化な状態」は実に多い。このような状態を無理やり何かの「病気」でラベル化しようとすると、不要な薬が増えて、ポリファーマシー(知らないうちに不要な薬が増えることによる健康障害)が生じたり、「病気じゃない」ことへの安心欲求を駆り立てて、検査を求める人が増え、いわゆるドクターショッピングに走る人が現れかねない。


病院へのフリーアクセスが可能で、家庭医がまだまだ少ない日本では、このような問題は日常的に起きている。日本は先進国の中で最も病床数が多く、医療機器が充実しているが、「病気」に対して「もの」で埋め合わせようとした結果、「もの」では満たされない健康問題が浮き彫りになりつつあると感じている。


誰しも頭痛は経験したことがあると思うが、「頭痛」という一つの症状をとっても、その人のもつあらゆる側面が関係している。患者に分かりやすいよう、また僕たち医療者が扱いやすいよう、僕たちは「偏頭痛」などのラベルを与えるが、実際「これだ!」と「型」にハマるケースは多くない。


よくよく聞いてみると、その人は最近睡眠が不足しがちで、なぜかというと職場で上司との関係が上手くいっておらず、家庭では年老いた母親の介護に疲れ、ストレスを発散しようと夜な夜なお酒を飲んでいることから眠りが浅くなっている、といった背景が隠れていることがある。そのような背景をもつ「人」に関心をもつことなくして、本来の治療はありえない。


「治療」という言葉にも、僕は違和感を感じることがある。「治療」と聞くと、どうしても「病気」に対する投薬や手術といった物質的なアプローチが思い浮かぶけど、僕たち家庭医が扱うのは「病気」だけじゃなくて「人」もだから。そこには、その「人」のもつ目に見えない背景も含めたアプローチも必要になってくる。


さっきの頭痛の例でいうと、頭痛に対して痛み止めを出すことを「治療」と呼ぶことは、僕の中でぜんぜんしっくりこない。痛み止めを処方することそのものは、症状を緩和しているその場しのぎの「対症療法」に過ぎない。


その人の背景に関心をもち、症状改善には至らなくても、患者に寄り添い、症状とうまく付き合いながらでも「その人らしい生き方を模索していく過程」が、本来の治療だと思っている。医療のゴールは、「病気がない状態」とは限らない。


そのために僕たちができることは、患者に共感しつつ幾つかの選択肢を与え、お勧めはしつつも最終的にはその人に「生き方」を選んでもらう、そんな患者主体の生き方の模索が本来の医療だと思っている。


これからの医療の主役は家庭医だと信じる理由

僕の専門とする「家庭医」(別名「総合診療医」)は、名前の通り、身近な健康問題をなんでも扱いますよ、という専門。診るのは「病気」だけじゃなくて、その人やその人のもつ悩み、ライフスタイル、家族、地域まるごと。「病気」になる前の「未分化な状態」も相手にするし、早まって患者をラベル化することはしない。


高齢化が進み、病気の多様性が増え、医療の「複雑性」や「不確実性」が増えた今、僕たち家庭医も、それら対するアプローチとして「患者中心の医療」「BIo-Psycho-Social Model」「統合的ケア」「家族志向型ケア」といったフレームワークを駆使して、目に見えない問題までケアしようと努力している。


それぞれ内容は深いので詳細は割愛するが、「土の時代」において目に見える「病気」を主に扱っていたこれまでの「治療」から、目に見えないその「人」全体像を診る「ケア」が、「風の時代」における医療の主軸になると思っているし、家庭医がこれからの医療の主役になると僕は信じている。


もう一つ、家庭医がこれからの医療の主役になると考える理由は、これからの医療の主軸は「ライフスタイル」における「予防」だと感じているから。


「土の時代」における医療は、結核などで代表される感染症などの「生命」を脅かす病気との闘いだった。しかし、物質的に豊かになり、衛生環境が整い、医学が進んだ今、このような病気で死ぬことは少なくなり、寿命は格段に伸びた。


その代わり、脳卒中や心筋梗塞といった病気が増えたが、これらは主に生活習慣病が原因で、ライフスタイルに直結している。また、うつ病や自殺といった「生き方」そのものと直結する健康問題も増えている。


つまり、これからの医療が最も力を入れるべきは、ライフスタイルの段階での予防であり、「生き方」そのものから見つめ直すことだと思っている。


したがって僕は、これからの医療の主役は医療者だけでなく、これまで医療とは関係ないと考えられていた、生き方と深く関わる他の分野とのコラボレーションも大切になると考えている。


ヨガやダンス教室といった身体的な健康促進、マインドフルネスや宗教などの精神的・心霊的な安らぎ、今や当たり前になったオンラインを通じた同じ価値観を共有する人同士の社会的な集い、これらを有機的に繋げ、その人らしい生き方となるよう提案し、デザインすることも、これからの家庭医の考え方だと思っている。


そうすることで、たとえ何らかの病気を抱えていても、孤独にならず、同じ境遇の人とつながったり、模範としたり、その人らしい症状との付き合い方や、生き方を模索できるかもしれない。


実際、僕の患者でも、生きがいや地域住民との繋がりをもつ人は、つらい症状を抱えていても悲壮感はなく、表情は生き生きとしており、その人らしい輝きを放っている人がいる。


医療における「Less is More」

僕は薬を減らすのが好きだ。好きというと変な印象を受けるかもしれないが、その人のこれまでの病歴を整理して、不必要と自信を持てる薬はどんどん減らす。もちろん、患者と相談しながら、患者に選択してもらいながら。


「終末期の望ましい生き方」について、本人の元気なうちから話す「Advanced Care Plannning」にも力を入れている。そこでは、延命治療を含めたケアの選択肢について、患者本人の価値観を中心に、するしないだけでなく、「なぜ」を大切にしながら、望ましくないと思う選択肢はお勧めしない。


そのような対話を重ねることが、患者に生き方そのものに対して主体意識を持ってもらうきっかけにもなるし、患者や家族と信頼関係を築く土台にもなっている。


そこで自然と意識するようになった価値観は、冒頭にも書いたキーワードの1つ、「Less is More」。医療はやり方を誤れば、その人らしい生き方を不幸にも残念な形にしてしまう諸刃の剣になることは、急性期医療と緩和ケアの両方に関わって嫌々経験している。


僕たち医療者は、「何もしないよりも何かしてあげたい」という気持ちに駆られ、ついつい検査を追加したり、薬を増やしがちだが、「何もしない」ことや、時として「引き算」することは、「何かしてあげる」ことと同じかそれ以上に重要で、思いやりのある行為である。


「風の時代」における家庭医としての僕の価値

文章が長くなったが、書きながら僕は、僕のもつ医療者としての考えに、信念のようなものがあることに気づいた。何か新しいことをしたい、より本質的な健康のあり方について模索したいと思った。そういう自分に、ひょっとすると他の医療者にはない価値があるのではと感じた。価値観の重なる人がいたらもっと繋がりたいと思った。


これからより具体的に言語化し、発信し、少しでも社会に役に立つ形に残したいと思う。その最初のスタートが2021年であり、この年の目標としたい。まだまだ漠然としているけど。。冒頭の写真は、風を感じる場所で最近妻と散歩した時のもの。もうすぐここから、目の前の海を渡るクジラの群れが見え始めるのが楽しみ。


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