#150【介護雑記】「毒親」と「扶養義務」~毒親介護の活路を探る~
ある資料によると、世の中の親の99%は「毒親」なのだと言う。そして「毒親」に育てられた子供の90%以上が「毒親」になるのだと言う・・・。
私自身、二人の息子達から「毒親だ」と、判定されれば「毒親」確定なわけで。例え、現時点で「そんなことないよ。」と言われても、「認知症」の発症により、「毒親」に変貌するリスクは否めない。
そして、その頃には、自分が子供達にとって「毒親」になっているという「認知」も、もうできないであろう。その時には、子供達に私の事を「正しく捨てて欲しい。」
その為の知識をしたためておく。息子達が私の処遇に迷わぬ様に。
親がどんなに「毒親」であっても、子供には、親を扶養する義務が民法877条第1項で定められている。(20年後30年後に、この法が改正されている可能性は除く。)
この”条文”だけが、まるで常識の様に世の中で一人歩きしていて、自分の大切な人生を、否応なく「毒親の介護」に喰い潰されるまま、介護のダークサイドへと堕ちて行ってしまう事例が後を絶たない。
しかし、「法律」というのは、その解釈の仕方で様々に活用される事を前提に定められている。「扶養義務」という法律を正しく理解すれば、「毒親の介護」にも、活路を見い出せるのだ。
今回は、東洋経済ONLINEから、2019年1月1日に掲載された記事をご紹介する。⬇️⬇️⬇️
◼️「絶対に扶養しなければならない。」というワケではない。
つまり、「介護者が経済的、心身的に余力がない。」という場合は、「無理に扶養する義務はないんですよ。」ということだ。
この法解釈は重要だろう。
ましてや、幼少期からの虐待があったり、介護中においても、暴言や暴力による精神的苦痛をまき散らす「毒親」を、”自分の生活を犠牲にしてでも、全ての面倒を見る義務はない”。法的裏付けがちゃんとあるという事。
但し、自分の配偶者や子供に対する扶養義務は、親や兄弟姉妹に対するものよりも、法的拘束力が強い。
将来、連れ合いの介護など「絶対に御免だっ!!」と考えているのなら、お互い経済力のあるウチに、サッサと離婚しておくに限る。
◼️では、毒親の扶養義務は放棄できるのか?
”自分の生活を犠牲にしてでも、全ての面倒を見る義務はない”。という法解釈があるのなら、「毒親の介護」を放棄してもいいんじゃね?
というと、それは出来ない。それをすれば、「扶養義務」を定めた法律に違反となる。これについては、以前、別記事でUPしている。⬇️⬇️⬇️
”じゃ、やっぱり「毒親の介護」からは、逃れられないんじゃ・・・。”
残念ながら、そうです。
しかし、それは即、『「同居」あるいは「通い」で、介護しなければならない。』という事(=義務)ではない。
そこで、
行政に「介護」を託して、「毒親」との物理的な距離を確保する。
これが、合法的に「毒親」を捨てられる唯一の道@現行法では。
だから、「介護保険サービスを使いましょう!」「相談に行きましょう!」なわけだ。
でも、”親を介護する金なんか、ないっ!! だから、相談に行けない・・・。”
そこにも、ちゃんとセーフティーネットがある。
◼️扶養義務と「生活保護」の関係を正しく知ろう。
「毒親」を「同居」あるいは「通い」で介護していると、「生活保護は使えない。」と思いこんでいる場合がある。しかし、実際はそうではない。
東洋経済ONLINE【親を扶養する義務」を正しく知ってますか】で、筆者であり、弁護士の宮川舞氏は、こう続ける。
これは、親が「毒親」でも、そうでなくても、同居介護であっても、そうでなくても、要介護者、扶養者(介護者)が、経済的に困窮していれば、生活保護を受給できる可能性があるということ。
具体的事例をひとつ上げるなら、同居介護している「親」と「世帯分離」をして、「親が生活保護を受給する」という方法。生活保護を受給できれば、医療費は無料になる。且つ、施設入居費用や介護費用も賄えるケースがある。
但し、親に相応の資産がある場合は、生活保護申請は通らない。この場合は、親の資産を切り崩して介護費用に充てられる様にすれば良い。それこそ、「成年後見人制度」を利用しよう!! って話だ。(私的には、お奨めしないけどw)
「いやいや・・・。」「だって・・・。」「でも・・・。」というご意見もご事情も多々あろうかとは思うが、それでも、「毒親の介護」から合法的に逃れる道は、”ある!!”という事を知っておいて頂きたい。
それに「手を伸ばすか?伸ばさないか?」は、ご自身の選択次第。
「毒親の介護なんかに、金なんか出すかよっ!!💢」という気持ちもわかる。
でも、私なら、「自分では、とても面倒見切れない毒親の事を看てくれる人達への感謝と、その対価として正当に支払うべきもの。」と考えを転換する。
「毒親」に金を出すのではない。
介護を請け負ってくれる”サービス”と、それを担ってくれる介護職の方々への当然の報酬と考える。それで自分の人生が取り戻せるのなら、結果的には、「自分の為に出す資金」に他ならない。
ましてや、それが行政に相談すれば、最小限の負担額で済むなら、それに越した事はないわけで。
1年365日24時間の毒親介護から少しでも逃れ、自分の人生を取り戻せるのなら、お安いものだ。
また、「毒親」を介護している人にとっては、紛れもなく「毒親」なのだが、他者からすれば、案外「毒親」ではない場合もある。
ウチの母なんかは、その典型だった。中度~重度の認知症でも「よそ行きスイッチ」は入る。施設では、とても”素直な良い子”で、可愛がられた。
逆に、家族介護者には、”良い子”でも、施設に入るやいなや、”悪い子”に変貌する場合もある。これは、多分、ウチの父だ。
ウチの父は、今のMCIステージで施設に入所すれば、必ずや「暴れん坊将軍」になるのは、間違いない。だから、可能な限り、「在宅介護で」と考えている。(父の方が、外的毒親なんだなw)
”タイガー”を抑え込めるのは、”ドラゴン”しかいないw
だが、私が老いさらばえて、もし、”タイガー”の様な毒親になったら、それを抑え込める器量のある息子達ではないだろう。
老いさらばえて弱った私はきっと、その自覚のないまま、息子達の背中を引き裂き、喉元を噛み砕く様な事をする・・・かも知れない。
”そんなこと、出来るわけがない。”という常識を失うのが「認知症」の怖さだ。
いざとなったら、息子達が、躊躇なく、私を捨てられる様に、私は、「私自身を始末できる資金と知恵」を、息子達に残しておかなければならないと考えている ―――。
だからこそ、「知識は武器」、「介護とは戦略」なのだ。