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2022年長野・安代温泉にて

 たどり着いてみると、渋温泉だと思って予約を入れていた旅館は、同地域ではあるが、安代温泉という温泉地だった。渋温泉は歩いて3分ほどの隣の地域だ。同じ道路が両温泉を貫いているので、この一帯を安代・渋温泉郷と呼称しても差し障りはない気がする。

 とはいえ、渋温泉には燦然と輝く「金具屋」という温泉旅館がある。その金具屋を筆頭に、渋温泉街はまさに温泉街然とした雰囲気だ。通りを温泉旅館が立ち並ぶ姿は、訪れる人々の表情を緩めさせている。宿で提供された浴衣羽織を身に纏うカップルが初々しく見えたりする。安代温泉も同じ通り上にあるのでしょげることはない。ただ、残念なことに朽落ちた旅館が何軒かそのままになっている安代温泉地域は、渋温泉のような明るさが連なってはいない。

 今回宿泊した「安代館」は外観こそ立派な建て構えである。館内は所々が「味」と呼ぶことはできない老朽化も確認できる。しかしこれも考え方で、清潔で、明るくて、空間がすっきりとした「2022年には当たり前」の「キレイな宿泊先」という先入観を恥じる必要はないだろうか。足を運び館内に入った時のショックは忘れ難いし、ここに書くことも難しいが、「わたくしは一体何を期待したのだろうか」と反射的に自分へ問いかけたことを忘れてはいけない気がしている。

 きちんと説明すると今回の旅行は、妻のあいこさんが12日に誕生日を迎えるのでそのお祝いに企画したものだ。正直に白状すれば、金具屋に宿泊をしたかったのだが満室で無理だった。そこで、この地域の温泉旅館を探していてたどり着いたのがここ安代館である。選んだ理由に、「料理のおいしさと源泉掛け流し」があった。そしてその評判はその通りで、料理がとても美味しい。館内の雰囲気とは異なる料理が用意される驚きは、エンターテイメントのように感じた。

 源泉掛け流しもまさにそうで、流れ続ける温泉が熱いので加水して温度を調整する。浴室は決して広くはないが、浴室は改装されており気持ちもいい。泉質はよく分からない(調べると、ナトリウム塩化物 硫酸塩温泉だった)が湯冷めしない。湯の心地も確かにいい。美肌の湯と呼ばれている理由がよく分かる。ちなみに、部屋のトイレも最先端の改装がされている。部屋には到着時(15時)、既にこたつと布団が並べられていたことには驚いたが、「中居さんが急遽休みになってしまいとても困った状況」の中での精一杯を感じもした。

 到着時に出迎えてくれた女将が掃除中の出立ちでとても驚いたが、休んだ中居さんの仕事を埋めるために必死に頑張って奮闘していたと聞いて、「どこも一生懸命にしているものだ」と他人事でないような気がした。先にも述べたが、2022年には当たり前の先入観は、妻を祝いたい気持ちもあり、宿泊先の華やかな雰囲気を疑っていなかった。しかし足を踏み入れてみると、全く想像していなかった内容に家族も一瞬、言葉を失っていた。

 わたくしが期待した華やかな雰囲気という先入観は、2022年では当たり前の感覚と概念となっているが、それはやはり全てに当てはまりはしないものなのだ。日頃から飲食店へ向けられる期待についてあれこれと文句ばかり言うわたくしは、ここでやはり、首根っこを折られる思いである。

 隣の部屋からの声もよく聞こえるし、館内の振動も共有している。確かに古びてはいるが、不思議とそれも慣れるのだ。それらは直ぐに慣れる。食事は美味しいし、女将は奮闘している。温泉も広大な浴室とはいかないが、小ぢんまりとしていていい。外湯めぐりが二軒だけでき、旅館の隣に外湯があって便利だ。部屋で過ごす時間が自宅の感覚を越えない点は旅情感を覚えないが、これも捉え方ひとつである。

 明日の天気は雪だそうだ。早朝に外湯の熱い湯に浸かり、体を温めようと思う。ひとつ自分の手抜かりを言えば、ノートを持ってこなかったことだ。晩御飯に出た大根の煮物に鶏肉のそぼろ餡がかかっていた。この餡が美味しくて、直ぐさまにノートへ書き記したかった。紙屋川でのパスタに餡かけソースを作ろうと思う。トッピングパスタのレイヤーを書き換える情報だ。しかし手元にノートがない。メモもない。書き残さないと忘れてしまうし、覚えておこうとすると、記憶の容量に空きが生まれない。書き残すと記憶容量を使わなくて済むのだ。

 安代館は過ごしやすい。「合宿に来たかのようだ」とあいこさんは言うが、気分は悪くない様子だ。かの子さんは思いの外、こたつを気に入って楽しんでいる。わたくしはこういう趣の宿にはひとりで訪れてきたから懐かしんでいる。2022年の先入観はある種の裏切りを経験して、木っ端微塵になった。しかし不思議と、その木っ端微塵具合が心地いい。

 山頂に雪を頂く日本アルプスを遠くに眺めた車窓から、都市では味わえない人間の小ささを思った。この国に長野があってよかった。冬の入り口にこの土地へ来れてよかった。何よりも長野電鉄の小田急ロマンスカーに乗車できて嬉しかった。明日もあの車両に乗って長野へ向かおうと思う。安代・渋温泉にまだ足を運んだことのない人は是非とも、ロマンスカーを利用してこの土地へ来てみてはどうだろうか。温泉街にある射的の命中度も高くて、自分の力を信じるきっかけをもらえる温泉街である。

2022年12月10日土曜日 22:39 安代温泉・安代館にて

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