見出し画像

「私は誰か?」と問う瞑想

ラマナ・マハルシというひとが、

「私は誰か?」と問いながら瞑想すると良い。

と言ってるらしいことを聞き及びました。

ヨガ友の村山さんが言ってました。

ラマナ・マハルシというひとについてよく知らないし、本も読んだことないです。

又聞きの知識だけなんですが。

ちょっと(15分くらい)実践してみて、感じたことを書きます。



「私は誰か?」と私は尋ねます。

瞑想中の思考

誰ってなんやねん。

よくわからんし。

抽象的すぎてシックリこない。


「私はどこか?」と尋ねてみます。

瞑想中の思考

それなら、まだわかる。

頭、脳に、私があるような気がする。

あるいは、心臓とか。

背中の感覚に私があるような気がする。

昼間なので、物音けっこうする。

後ろのほうで誰かが何かを片付けてる。

窓の向こうで工事みたいのしてる。

物音が聞こえるたびに、私が反応する。


また、「私はどこか?」と尋ねてみます。

瞑想中の思考

物音がした方向に私がいるような気がする。

完全に物音もしなくて、身体の感覚もなかったら、

私があるように、あまり感じないかも。

身体の感覚のあるところ、物音のするところ、に私があるような気がする。

つまり、五感に私があるように感じる。


改めて、「私は誰か?」と訪ねてみます。

瞑想中の思考

ん?

私はどこか?と尋ねたときと違う感覚がした。

私はどこか?と尋ねたときは、

頭、脳、心臓、背骨、物音に反応する私、物音のする方向に私があるような感じがしたのに。

私は誰か?と尋ねたら、背中の後ろのほうに何かある気がした。

背中の後ろの二、三メートルくらいのところ、何か黒い丸いエネルギーのカタマリみたいのがある。

そこに私の身体はないはずなのに。

そこに物音も、何もないはずなのに。

私の身体がある次元とは、別の次元に、「何かいた」って感じ。

「お前そこにいたのか!」みたいな感じ。



これを例えて言うなら…

私は家で寝てるとします。

夢の中で近所のコンビニに行ったとします。

ありえないけど、夢の中から、現実の誰かに電話をかけることができたとします。

Aさんに電話をかけたとします。

「私、今近所のコンビニにいるから」

でも、Aさんが近所のコンビニに行ったとしても、私はいません。

だって、現実の私の本体は家で寝てるし。

私「今コンビニにいるよ~」

Aさん「いないけど??」

夢の中の私には、コンビニにいるように感じられてても、

コンビニにいるというのは、私の頭の中だけの話です。

コンビニという場所は同じでも、次元がズレてるので、Aさんと私は会えません。


「私はどこ?」と尋ねたときに、身体のイメージや物音がイメージされました。

これは現実に近いです。

現実の五感を反映してます。

どこかで物音がしたら、私はそれを聞きます。

でも、それも五感から作られた、頭の中のイメージです。

一方で、夢の中でコンビニにいるっていうイメージは、現実と隔たってます。

現実の記憶を元に作られてるけど、現在の感覚ではないです。

なので現実とはハッキリとズレてます。


「私は誰?」と尋ねたときに、

「同じ場所だけど、身体とはズレてて、次元の違うところに何かいる!」

みたいに感じたのは、「夢の中の私」を発見した感じです。

モノを見るときに、わざと焦点をズラして、ぼやけさせる。

風に、意識の焦点をズラしてみると感じられます。

その発見したエネルギーのカタマリみたいのを、

静かにする、静かにする……

消す……

みたいに思ってると、何か強いエネルギーが感じられてきます。

二、三メートル後ろにある黒いカタマリみたいのを。

消す……

そうすると、何かの扉が開きそうな感覚がしました。


瞑想で「私を消す」をやろうとするとき、

五感を消すとか。

思考を消すとか。

そういうのをまず思いつきます。

しかし、じつは私というのは、夢の中のコンビニの私みたいに、次元のズレた世界にいるかもしれません。

「私は誰か?」は、そいつを発見するための探索装置かもしれません。

よく知らなくて適当に言ってるだけなので、違うかもしれませんが。

ユーチューブにラマナ・マハルシさんの小冊子の朗読があったので、それを聞いてみます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?