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ルート24

京都と奈良の丁度真ん中あたりの小さな街では、新名神高速道路の工事が昼夜を問わず行われていた。
とかくこれといった特徴もない、形容することが難しいなんの変哲もないこの街を、今はおびただしい数の工事車両がひっきりなしに行き来をしている。車両たちは列を成して、排ガスと砂煙とけたたましい騒音をあたりに撒き散らしいて、それがある意味での活気をこの街にもたらしていた。

名古屋や神戸へと伸びる新しい高速道路を造るため、様々な政治家や役人達が希望と欺瞞の議論を繰り返して繰り返して編み込んだ。計画は実行決定と中止決定を何度も行ったり来たりしながら、後にようやくこの巨大なコンクリートの橋梁を、幾多の時間と知識と経験の髄を、労働の潔く逞ましい力と共に此処に結集させた。

必要であるか必要でないかはさておいて、
それは今日もまた、数センチ数センチと完結へ向かい伸び続けている。人々の汗や怒号や疲弊や感動は、意味性とは別の次元で間違いなく確実に実態を成していく。

私は、新名神高速道路工事の拠点となるプレハブ小屋のすぐそばにあるローソンの駐車場から、その様子を眺めている。
梅雨前のその時期らしく大気は水分をたっぷりと孕んでいた。
ローソンから南側に聳え立つ巨大なコンクリートの橋梁群を除いては、田畑が広がる面白みのない牧歌的な風景が広がっていて、それゆえに、風が通り道を選ぶことに苦労はしない。
質量のある梅雨の大気はおかげでそこに長く滞在することはなく、まだ少しばかり冷気を含んだ山からの吹きさらしの風が、それらを定期的に一掃していた。

私は、期間限定販売の酸味の効いたアイスティーを飲みながら、停めたスクーターを反対側から跨いで、まるで真昼間のお天道のように煌々と光る工事現場の様子を、呆然と眺めていた。

上空の作業は、神々しい。
漆黒のような闇夜の中、光に晒された赤白のクレーンは重厚なコントラバス。それらに指示を出す現場監督は壮大なオーケストラの指揮者。巨大な塊がうねりの様に指示の通りに確実に円滑に、それでもブラームスの交響曲のような慎重さを持って、徐に、その任務は遂行されていく。88鍵目の最高音のC。それに似た緊張が轟音の重機の軋みに溶け込んでいる。

それはまるで神々の手によって破壊と創造を繰り返したあの時のように、みるみるうち街の様子を変化させていった。私は、諦めや期待や恐怖や希望を、またはそれにそぐわない別の感情を心にぶら下げていた。この流れは誰かに止められようなそんな弱々しいものではないことを私は知っていた。時間の軸。歪み。思考。歴史。
実態を伴う目に見える物理的な変化は、
濁流の中に飲み込まれた小山羊のように、価値の概念をも猛烈な勢いで変えて行った。
かつての自分なり、そこにあった関係性なり、何よりも実質的な街の風景なりが、ともすれば記憶の上だけの価値になる事に、正直なところ私は困惑する。

30メートルほどの高さのある橋脚の袂では、ピカピカと電飾が瞬くベストを着用した、備長炭のような焦茶色に日焼けした初老の男性が、点滅する赤色棒を片手に、何やら時折トランシーバーに向かって叫んでいる。

「お前!何回言うたらわかるんや!ちゃんと停めー!言うたやろ!死にたいんか!それか俺を殺すんか!お前ふざけてたら怪我すんぞ!」

今夜のパートナーは彼にとって役不足らしく、
口調があまりに穏やかではない。
すると間髪を入れずに、パパパーとクラクションが鳴り響く。コミュニケーションがうまくいかず、運転手はイライラを包み隠さない。幸か不幸か近くに民家はないので、止める方も進む方もその辺りの遠慮を失っている。
事故がないのが不思議なくらいに、
今夜の交通整備は乱れている。

山からの風が一瞬生温かいものに変わった。
地面からは、先に蒸れたような匂いがして、そうして雨の気配が空を覆った。
最悪やん。と私の心の声は音になって漏れた。
程なくして、ぼとりぼとりとまるでドラムのタムを打つような大粒の雨が落ちてきて、やがてそれらは集合体の大雨になった。

自宅へ戻る機会を失った私は、まるで劇場を間違えた俳優のようなミスキャスティングなその酸味の効いたアイスティをゴミ箱に捨てて、再びローソンの中に入った。

時刻は午前1時を回っていた。

ローソンの中では40代の店主と思しき男性と、髪を後手に束ねた妙齢の背の低い女性が店を切り盛りをしていた。
深夜のバイトを雇用出来ず、オーナー夫妻自らが店に出ているのか、はたまたそれ以外の関係性を持った二人なのか、親近感と疎外感が絶妙な均衡を保っていて、なんとなくこの街っぽいなと私は思った。

客は私一人しかいない。
雑誌コーナーで本を物色しているふりをして、
大量の雨粒が流れ落ちる窓越しから、再びあの交通警備員を見た。いつの間に分厚い蛍光のイエローのレインコートを羽織り、懐中電灯付きのヘルメットを装着していた。故障を懸念してか、トランシーバーは使用していなかった。雨粒は容赦なく警備員に叩きつけられていたが、気にする素振りも見せず、一台また一台と車を流したり止めたりを繰り返していた。

30メートルも上空での作業を補佐するのに、
なぜ地上の交通整備が必要なのか私にはわからなかった。けれど、その警備員からは底知れぬ気迫と覚悟と責任を感じ取ることができた。

この大雨で上空での作業は、中断せざるを得ないのだろう、いつもの神々しい光の中に人の影は見当たらなかった。
それでも時折、地上では車のクラクションが鳴り響いた。

私の横に老人が立った。
いつの間にか老人は立っていた。ローソンの店内にもともといたのかも知れなかった。けれど確かに今は唐突に私の横に立っている。

老人は、薄切れた水色のチェックの綿性のパジャマを着ている。ズボンのゴムは伸びていて、ずれた隙間からブリーフが漏れ見えている。足もとは茶色い雪駄で、片方だけ灰色の靴下を履いている。

老人は私の横に立っている。音がするぐらいにぼーと。もちろんぼーとしているのだから無音なのだけど…。
口は半開きで歯が所々ないのがわかる。

私との距離感でいうと無視できないぐらいの気味の悪い距離感だった。
嫌な感じはしない。けれどすこぶる気味は悪い。

カウンターに店主と妙齢の女性が並んで立っている。今にも口づけをしそうな雰囲気だった。

「あの時な。たしかに燃えたんや。高々と炎が上がって、みんな見上げとったもんな。誰が火ぃ付けたとか、そんなんはほんまはどうでもえーねんで。綺麗やったでー、ほんで勢いがあった。それ見たらな“希望の炎”ちゃうか。っておもたんや。
多分、俺だけとちゃうで、みんな絶対そぅおもてたはずやん。俺だけとちゃうかってん。
だって、わろてたもん。みんな、えー顔でわろてたもん。うん。」

警備員が警備笛をびぃー。と吹いた。
ローソンの中までそれの音は届いた。
カウンター内の二人が一瞬だけ外を見た。
老人は続けた。

「じゃんじゃんいこう。じゃんじゃんいこう。って言うたよ。それは確かに俺いうた。それは間違いないわ。認めるわ。
せやけど、言わんかったとしても、みんなじゃんじゃんやってたよ。そらそうやで、止まれへんよ。そんなもんやで、火ぃってそんなもんやもん。黒い煙がもくもく上がって、こらちょっとやりすぎちゃうかなって一瞬おもたけどな。せやけど、止まらんよ。」

老人の口調は老人のそれではなかった。快活だったし、エネルギッシュだった。エモーショナルだった。

「パッと気ぃついたら。役所の人間が来て。あーやこーやと注意始めよったねん。せやけど、見てみぃと。これは希望の炎やねんから。わかるやろ?
わからへんのやったら、そらお前もぐりやで。
そらそうやん。もぐりやん。
次に消防車と消防士が来たん。でっかいポンプ車に乗って5人来よった。まさかな。と俺もおもたんよ。まさかやで。そしたらガチャガチャ音し出して、右よし左よしみたいなことごっつい声で言い出しよってん。
挙げ句の果てに、放水ー!やて。あほちゃうか??
ほんまに。放水ー!で希望も何もかもパーや。
パー。わかる?パー。」

老人の話すリズムが心地よい。私は警備員を見るふりをしていたが、ほとんどの脳内の注意力は老人の言葉に向けられていた。

「ほいだら、ついに来よってん。警察や。刑事や。環境犯罪課の丸山です。いいよんねん。はあ丸山さん?知りまへんが、何か?警官が実況検分や言い出しよった。4人おった。
役場のやつが2人、消防士が5人、刑事が4人や。
パッと周り見てん。俺。あれ?とおもてん。
だれもおらへんねん。俺以外。誰一人おらん。
さいぜんまで、じゃんじゃんやろーじゃんじゃんやろー、言うてた奴がひっとりもおらんねん。
あほちゃうか。ほんまに。えらいもんやでー。
丸山が言うて来よった。お名前は?ご住所は?年齢は?言うて来よった。せやから、俺言うたったんや。なんでおどれにいちいちそないなこと教えたらなあかんのや!?舐めとったらいてまうど!
言うてな、言うたったんや。どや?
かっこよろしやろ?」

「ほいだらこれや」

そう言って両手首を肩をすぼめてへその前あたりでくっつけて、(手錠をかけられたふり)をしておどけた。

終始一貫して、老人は窓に向かって話している。
私も、窓に向かって警備員を見るふりをしている。ローソンのカウンターの中の二人は何やら険悪な顔をしていた。

「これ、24号線。左に行ったら警察署やん。もう潰れたけどなー。古い警察署の一階の奥の方に汚い取調室があってや。そこで尋問されたんや。
不思議なもんやで、いきりたっててん。腹立って腹立って腹立って腹立って。俺は怒っててん。
せやけどな。孤独はつらいねんで。
あいつらは上手いこと孤独を使いよる。
孤独を武器にして、あいつらはやりよる。かなわんよ。孤独にはかなわんよ。
俺はおもてん。権力ってのはあれやな。孤独を掌握した方の勝ちやな。俺はその時無くしたねん。
孤独を掌握するための鍵みたいなん。全部奪われたねん。これから先はなんにもかも、全部誰かに決められる気がしたねん。」

老人は泣いていた。少しだけ首を傾げて、上空の神の光を見ていた。

「ごっついなー。こんなもんなんで必要やねん。
そない忙しいか?そない急ぐことあるかいな。
みんな大変やなー。俺はもうないわ。
せやけど、この道路のおかげでな、古い警察署が壊されたやろ。俺わざわざ見に行ってん。潰されるとこ。がちゃんがちゃんってなー。壁が剥がれていくねん。
不思議な事にな。これはほんまに不思議な事に。
がちゃんがちゃんって、親の仇みたいにめちゃくちゃに壊してるのに、一階の奥のあの取調室だけ、ぽこんと残ってん。瓦礫のなかに、ぽこんと。一瞬やったんやけどな。不思議やで。ぽこんと。せやけど、次、鉄球みたいなんで、どーんや。こなごな。一瞬で。
あれは、よかったなー。あれは俺すっとしたで。
なんや孤独の鍵を取り戻したみたいや。もう遅いけどなー。かまへんねん。

じゃんじゃん行こうじゃんじゃん行こう。」

老人は、何も買わずにローソンを出て行った。
カウンターの二人は、挨拶すら発しなかった。
雨はやんでいた。警備員がトランシーバーを取り出している。また何かを叫ぶのだろう。

私も、何も買わずにローソンを出た。
店を出るチャイムと合わせて、二人がハモるみたいに『ありがとうございましたぁ』と言った。少し嫌味に聞こえた。

雨上がりのちぐはぐな空気は私に幾らかの圧力をかけた。愁いではなく、体感として寒かった。
ローソンから出てすぐ、24号線は片側交互通行。
私は警備員に静止を求められた。

トランシーバーから相方の声が聞こえる。
「こいちゃん、こいちゃん。ほんまにお疲れさんやったなぁ。わし寂しいよ。わし寂しいよ。
元気でやりやぁ。元気でやりやぁ。」

「やかましいわ!まだ終わってへんぞ!
馬鹿にすんなよ。俺はまだ終わってへんぞ。
最後、黒い原付き一台や!通すぞ!
ありがとうなぁ。ありがとうなぁ。ほんまに。」

ガガピー。ガガピー。

ノイズにまみれて頼りないパートナーからの返答は瓦解した。


橋桁と並行する様に小さな川が流れている。
私たちは古川と呼んでいた。

私は風と一緒に古川を抜ける。
スクーターの渇いた鳴き声と蝦蟇の幼気な騒音が交錯する。バチリと、甲虫がヘルメットにぶつかり黄色い汁を垂らした。
右手には見渡す限りに田園とイチジク畑が交互に続いている。相反して左手には巨大な人工建造橋梁群。
どちらが現実でどちらが幻なのか、あるいはもしかしたら両方が幻なのかもしれないと私は逡巡した。この街は今、二面に接している。
右向こうが過去で左あちらが未来。
現実と幻の境界を、この饐えた異臭が漂う溝川(ドブガワ)が隔てている。


夜をひたすらにまっすぐ抜けると、古川を挟んで南側に今池小学校が見えてきた。

十六夜の月の光が窓ガラスに反射してキラキラと輝いている。
闇に溶け込んだ校舎は月光を吸い込んでゆらゆら揺れて、蜃気楼のようにそこに浮かび上がっている。

校舎の前には巨大化したダンゴムシのような形の体育館がある。こんな時間なのに体育館に明かりが灯っている。体育館から漏れ出た明かりで、虚しく広い運動場が、静かに意味を主張している。

私は黒いスクーターを停めて、校門をよじ登り今池小学校の中に入った。

校門の脇には老いた桜の木がある。
昔からここに植わっていて、当時からその姿は変わらない。不思議な事に一枚一枚と樹皮を重ねていって、彼は独自の時の流れを作っている。幹には所々に穴が開いていて、根の近くの剪定された古い枝後は、黒ずんで腐り始めているのがわかる。それでも春になればきっと彼は開花する。まだ彼自身の役目はそこにあり、彼はけっして諦めてはいなかった。

奥には小さな人工池がある。ポンプで汲み上げられた汚水は、汚水のまま街灯を模した排出口から垂れ流されている。びっしりと生えた深緑の藻のなかを真っ黒い鯉がゆっくりと蠢いていた。
私が池の側を通り過ぎると、真っ黒い鯉はぎろりと私を睨み、水面まで浮上してバカリと大きな口を開けた。

僕は鯉にかまわず、明かりのついたダンゴムシの体育館に向かった。

体育館はまるで恒星のような自発的な輝きを放っていた。光を頼りに羽虫が集まる。体育館に繋がる渡り廊下には真っ青なプラスチック製の簀子が一列に連なって敷かれていて、まるで銀河のようだった。
私は体育館の脇にある階段に腰掛けて、運動場と校舎を眺めた。
よく見ると、そこにはまた孤独が張り付いていた。
私という個体の孤独とそれに対比して空間の孤独、物質の孤独、音の孤独、光の孤独、時間の孤独。様々な形の孤独がそこかしこにねっとりと張り付いていた。
それぞれの孤独の形状は、ぐるぐると集まって大きな球体となり、柔らかい恐怖とマイナス273度の安心感を伴って私を包括した。
私は歯がガチガチ音を立てるくらいに震えていた。とにかく怖かった。深い恐怖だった。


やがて私がその少年に気付いたのは、震えが落ち着いて、星をひととおり眺め終わった後だった。
少年は体育館の外壁の柱の付け根の部分に、何やら穴を掘っていた。掘った穴からはまん丸い球体が四つほど出てきた。取り出した球体を傍らに静かに並べて、今度はそのまん丸い球体にサラサラの乾いた砂をかけた。砂をかけては右手で軽くそれを擦り、またサラサラの砂をかけた。
丁寧に丁寧に作業は続けられた。一つの球体を磨き終えると、次の球体に同じような所作を繰り返した。それを三つ目の球体まで粛々と行った。四つ目の作業は今までとは少し変わっていた。少年は、どこからか霧吹きのようなものを取り出し、球体にしゅっしゅっと水分を吹きかけた。水分が乾かぬうちに、サラサラの砂をかけ、ゴシゴシと擦った。さらにもう一度、霧吹きで液体をかけ、サラサラの砂をかけて、先ほどよりも幾分か強めに球体を擦りはじめた。その瞬間、球体は圧力に耐えきれず、ボロボロと崩れてしまった。
少年は、しばらく崩れた球体を眺めていた。
その後、ふぅと深いため息をひとつついた。

「やっぱりあかんかった」

少年は振り返って私にそう言って続けた。

「ここが難しいねん。ここを超えられへんねん。ここを超えられたら赤と青とか見えんのになあ。
ここが分かれ道やわ。ちょっと待ってな。見せたげるわ」

少年は、先程掘った穴とは別の場所からまた三つほど球体を取り出して、そのうちの一つを大事そうに両手で包み込み、私の目の前でゆっくりと広げて見せた

「ほら。わかる?」

サラサラ砂がまだまばらにかかっていた球体に、
少年はフゥッと息をかけた。
その瞬間に球体は淡い輝きを見せた。
赤のようでもあり、紫のようでもある、
金色にも見えるし、黒色にも見える。

「ここまで来んのに結構時間かかるねん。おもろいやろぅ。おもろいわぁ。たまらんやん」

手のひらで輝く球体が、少年の瞳に綺麗に反射していた。
少年は、あげへんでと言って急いて穴の中に球体を戻した。
それから少年はまた、サラサラの砂を球体にかける作業に没頭した。

体育館からの灯りは絶えず漏れ続けていた。
私は体育館の中を覗いてみた。けれども、そこには誰もいなかった。
私は再び空を見上げて、それから校舎と体育館の隙間から覗く新名神高速道路を見た。

遠目に見た道路は、部分的に発光していて、途切れ途切れに橋桁がかかっている。この世のものには思えない。まるでファンタジーの映画のようだった。

私は体育館と校舎の間をすり抜けて、二棟ある校舎の中庭に向かって歩いた。
そこには今は使われていない焼却炉や、ウサギのいないウサギ小屋があった。
校舎の窓ガラスを貫いて十六夜月がくっきりと見えた。月も私を見ていた。

私ははっと思い出した。たしかにそうだったのだ。私は踵を返して駆けた。駆けて少年の元に戻った。体育館の灯りは消えていた。少年はそこにはいなかった。闇は執拗に夜に染み込んでいた。
とっぷりと。とっぷりと。
あたりに張り付いた獰猛で静かな空気を振り払い、仕方がないので私は家路を急いだ。


家に帰ると相変わらず父は機械に繋がれていた。自分で息をできない状態というのは、生きているといえるのかどうか疑わしくもあるが、父はやはり生きている。
コホー、コホーと父に送られる酸素の音は、生々しくてどこか傲然としている。
生かしてやっている。とも言いたげなほど。
私は眠っている父のベッドに腰掛けて、骨と皮だけになった父の顔を見た。それは終わりの顔だった。父が激しく咳き込んだ。カラカラに渇いた咳だった。
そのあと苦しそうに顔を歪めて唸ったりしたので、私はゆっくりと身体を横向きにさせてやり、背中をさすってやった。背中はゴツゴツと隆起していて、まるで搾取し尽くした採石場の岩肌のようだった。
臀部に目をやると、赤茶色の排泄物が滲み出ていた。父がまた渇いた咳をした。

隣部屋で眠っていた母親を起こし、襁褓を替えてやるように促した。
母親が一人ではできないと嘯くので、私が手伝う事になった。

「まず腰を上げて!違う違うなにしてんのや。
違う違う、あー、こんなとこにうんこついたがな。あー、横にして、ここや!ここ持っときて!
お父さん!ちょっとがまんしぃや。拭くで。
あんたはここを持っとき!もう何してねんな!」

便には血が混ざっていて、臭いには死が混ざっていた。

母親は腰を折り、汗をかきながら、四苦八苦していたが、私は箸にも棒にもかからぬほど、役に立っていなかった。ありとあらゆるところに排泄物がこびりついていて、どうにも作業が捗らない。父は右に左に揺らされる度に、うーうーと呻き声を上げた。

「あー!もう!あかん!あかん!お父さん!」

母親が大声を上げた。それに呼応するように父が唸り声を上げた。二人のやり取りのリズムとタイミングが絶妙で、あまりにも息が合いすぎていて、思わず母親が吹き出して笑った。私もつられて笑った。父はうーうーと唸っている。
母親は腹を抱えるぐらいに笑い転げた。笑って笑って笑い続けて、ついには、はあはあと息を荒くして、そうかと思えば今度はわぁわぁ大粒の涙を流した。母親の涙を見るのはとても久しぶりだった。父はやがてぐーぐーといびきをかきはじめた。私と母はこびりついた排泄物を拭いた。

今日が父と迎える最後の夜だとなんとなく、なんとなくではあるけれど私は確信していた。
夜がもうすぐ明ける。この夜を抜ければ、父はどこか得体の知れない場所に旅立つのだろうとぼんやりと想像していた。
父は相変わらずぐーぐーといびきをかいている。
コホーグーコホーグー。酸素注入器といびきのハーモニーが面白かった。母親は隣部屋で疲れ果てて眠ってしまった。
辺りが薄明るくなってきた。とても長い夜が明ける。カメムシが窓に二匹張り付いているのが見えた。

寝付けない私は、再び父のベッドの横に腰掛けた。私は父の頭を撫でてみた。髪は脂でベトベトしていた。髪の毛を数回、手櫛で梳かしてやった。脂髪から、黄ばんだフケが枕元にパラパラと落ちた。
私はそのまま額に指を這わせて、皺をゆっくりとなぞった。父のいびきが優しく止まった。
やがてゆっくりと朝がやってきた。
朝の光が大きくなって、温度を上げていくのがわかった。光はキラキラと広がって、一部は鋭く線になって私と父に差した。
私は父に繋がれている機械を外した。父は苦しそうに口を開けた後、掠れた声で「わし、、、臨終したんか?」と私に聞いた。私は小さく首を横に振ってまだあなたはここに居るよと伝えた。
父は少しだけ笑った。父は最期まで父らしくあろうと努めた。

私もまた子供らしくあろうと考えた。
考えて考えて挙句に私は、父の額を舐めてみた。ザラザラとしていて不衛生な塩味を感じた。

その日の朝は慌ただしかった。
医師は早い時間から家に訪れ、父の横で血圧を頻繁に測りながら、ちらちらと時計に目をやっていた。
付き添いの看護婦が、出たり入ったりしてひっきりなしに何処かに連絡を入れている。
母親も誰かに電話を入れては切り、また次の電話をかけては切ると、まるで節操がなかった。
昼前の11時45分に父の身体は骸になり、魂はそこからどこかに飛んでいった。
空っぽになった父の身体を看護婦がゆっくりと拭きながら、至る所に貼られていた医療用麻薬剤を、一枚、一枚と丁寧に剥がしていた。そうして、洗体が下腹部に至ると、昨夜、私と母が交換した襁褓に彼女は手をかけた。襁褓には大量の排泄物が血にまみれて付着していた。医師は看護婦に両脚をしっかりと上に上げておくように指示を出すと、父の肛門に指を突っ込み、腹の中から残留している大量の血便を掻き出した。
どろりと出てきた血便の色は襁褓についたその色より幾分か鮮やかだった。

「痛かったとおもうで、これは。」
医師は淡々と言った。
母親はその様子見ることができず、聞かぬふりをしてどこかにまた電話をかけていた。

父の死は安らかでも穏やかでもなかった。
痛みと恐怖と孤独にまみれており、それがすなわち死のあるべき姿なのだと私は思った。
私は父の骸を前にしているにもかかわらず、涙が流れなかった。私は心の無い人間なのではないか。その焦りからなんとか涙を流そうと試みたが、泣こうとすればするほど、私の瞳から涙は外れて、まるで別のどこかに穴が空いてそこにドバドバと垂れ流れているように、その目はカラカラに渇いていた。
母を見ると、母の目もカラカラに渇いていた。

虚無。
言葉にするとそれだと私は感じていた。
私たちの家族は、繋がりは、血は肉は、価値や意味は、歴史は。虚無に帰った。
私は私である意義の一つを失ったような気がした。また、あの運動場で見た、様々な形の孤独が、のっぺりと空間に張り付いていた。
孤独は大きな球体になって骸の父に覆い被っている。ギロりとこちらを見たその球体に、僕は無感情な笑顔を返した。

医師は淡々と作業を終えてから、骸の前で合掌して、「ではこれで」と言葉少なに立ち去っていった。なんの感情もない顔だった。

そこからは断片的な映像が続いた。
交錯する記憶は、過去と未来を行ったり来たりして、その中で父は力強くあったり、楽しげであったり、厳しくあったり、骸になったりを繰り返していて、その場所の時間の軸として、何が正しいのか私はわからずにいた。

気が付けば父の骸の周りには様々な人が入れ替わり立ち替わりで集まっていて、空っぽの肉体に手を合わせたり声を上げて泣いたりしていた。
母親は時おり、思い詰めた表情をしたり、悲しげな笑顔を見せたりしながら、訪れてきた客と繰り返して繰り返して、同じ思い出話を続けた。何度も何度も同じ話をし続けて、やがて思い出が擦り切れて、伸びたカセットテープみたいになった頃、垂れ絹が下がったような真っ黒な夜が再びやってきた。真紫になった夜は、弱くか細くなった月を後ろからゆっくりと飲み込もうとしていた。


それから翌々日。
葬儀は驚くほどスムーズに行われた。
葬儀のプロ達は、粛々と淡々と段取りを進めて、母親はただただ、「あーはい。」「そうしてください」「それで結構です。」「わかりました。」
などと承認をひたすらに繰り返すだけだった。
遺体の入った棺は葬儀場の広い和室のような場所に移動された。その後通夜が行われるという前に、『湯灌の儀』が執り行われた。
白装束に着せ替えられた父の骸は、三人がかりで持ち上げて用意された浅い風呂桶のような箱に入れられた。水道管に繋がれたシャワーからぬるま湯がちょろちょろと溢れ出した。

「故人の来世への旅立ちをお手伝いする為、
現世での汚れを洗い清め、産湯と同じ温度にて生まれ変わりを祈りいたします」

足下からゆっくりとその儀式は始まった。
足の指を間を丁寧に擦り垢を落とした。流れの中で太腿や腰、腹や背中を丁寧に洗い清め、最後に顔や髪の毛を洗った。
丁寧で美しい所作だった。その上あまりにも滑稽で馬鹿馬鹿しかった。この肉体に父はいない。この時に私は初めて父の死を明確に認識した。
同じくして私は気付いた。
死は色彩だった。
真っ黒な孤独の生から解放された死は、彩りの光を方々放っていた。
死は決して痛みと恐怖にまみれていたわけではなかった。むしろそれは生の側にあって、父が死んだあの空間には生がまだ漂っていて、それこそが痛みと恐怖の根源だったのだ。
その瞬間、私の目からはとめどなく涙が溢れだした。

「ではご家族の方々から、お清めの水をおかけください」

私は柄杓を手に取り、足下から胸までゆっくりと湯をかけた。
そのあと父の顔を見つめて、もう一度額を舐めてみた。
ザラザラしていたが、無味だった。


葬儀を終えて表に出ると空と雲は平行に並んで、厚い壁を作っていた。
今にも雨が降りだしそうな昼下がりは、母親をまたまんべんのない不安で包んでいた。

「お父さん、最期やでぇ。みんな来てくれはったなあ。ありがとうなあ。」

父の亡骸を乗せた車が、クラクションをならしながら葬儀会場を出て火葬場へ向かう。
一列に並んだ、参列者が頭を一斉に下げて見送った。父はこれを見て、多少は晴れやかな気分なるのだろうか。骸には関係ない。
新しい警察署の脇を抜けた先、国道の交差点の赤信号で車は停車した。
斜め前にはかつて旧い警察署がそこにあったが、
今はその痕跡は微塵もなく、巨大な橋脚とそれを取り巻く頑強な鉛の足場に代わっていた。
霊柩車は交差点を左折して、国道24号線を東に向かう。新池の交差点とJR奈良線の単線路を跨ぐ陸橋から、新名神高速道路の工事作業がまざまざと見えた。かなりの高さの陸橋からでも、まだ見上げるほどの高所で作業は行われており、橋脚から橋脚の間を掛かった細いワイヤーの上を歩く鳶職人が見えた。
東側では黄色い巨大なローダーや、ショベルカーが唸りを上げていて、それでもまた執拗に山を削っていた。

骸になった父など、もちろん誰一人として気にも留めず、今日もまた、一センチ一センチ終わりに向かう作業が続いている。
昨晩の湯灌の儀を思い出した。
死はあれほどまでに鮮やかな色彩に溢れていた。
私は、死の色彩に心を打たれて涙が止まらなかった。溢れ出す感情は何者にも変えられない感動があった。
それなのに、今。骸を運んでいるこの車。
この車から見える、新名神高速道路の工事。
生々しい『生』に直面した死は、もはや一瞬にして彩りを失うのだった。生の息遣いは死の色彩を乱暴に強奪するのだ。私たちは、そこになんとかしがみつきながら、必死でぶら下がっている。
生きるとはそういう事なのだろうか。
死が孤独だ。それは生からのいわば野放途な考えなのかもしれない。

「お父さん、大きいやろぅ。これが出来たら一緒にまたドライブしたかったなあ。なぁお父さん。見えるかあ」

母親は父の死に対峙して、必死に生にぶら下がっていた。
霊柩車は宇治の山奥の火葬場を、粛粛と目指した。


真史が私を訪ねてきたのは、葬儀が終わってから一ヶ月が経った7月14日の21時頃だった。

「よ。久しぶりや」

8年ぶりに会う友はそれだけ言って、ツカツカと玄関から真っ直ぐ仏間に向かった。
仏壇の前に座った真史は合掌した後、右手で線香に火をつけて、左手でサッと振って風を送り出しそれを消した。ここ数週間、嗅ぎ慣れていた芳ばしい香りが一瞬で小さな部屋を包んだ。

「おっちゃん、しんどかったか?まあそやろな。俺の親父もそやったしな。俺はまだ中学やったしな、訳わからんかったけど、今から思えばな、死ぬんはしんどいんやろな。」

タバコ?かまへん?
こちらが応える前に彼は赤いマルボロに火をつけた。

「生きるんもまぁ、しんどいけどな」

真史はしばらく黙っていた。黙ってマルボロを飲んでいた。
そうして、じとりと私の顔を見て言った。

「お前、なんや、薄なったな。」

え?と私は驚いた。

「薄なったわ。うん。なんやろ。そんなんちゃうかったとおもうけどな。前は。えらい薄なった。まぁ、かまへんねんけど。事実やもん。ところでお前ギターやめたんか?」

真史は父の仏壇の前に置かれていたギブソンのギターケースを一瞥して、もう一度私に聞いた。

「やめたんか?」

確かに、最近は弾いていない。

「そうかあ。それでやな。薄いもん。お前ギター弾いてる時、歌うたってる時。もうちょいなんか、あったで。うまいこと言えへんねんけどな。なんとなくこう。今はえらい薄いわ。」

まだまだ途中なのに、胸ポケットから携帯灰皿を取り出して真史はマルボロを消した。

「俺はな、売ったわ。サンダーバード。ギブソンやからな、まあまあな値段で売れたわ。48万で売れた。買うたんが、18万やったのにな、あの店員多分阿呆やわ。まあでも48万やったら売るやろ。ふつう。ちょっと試しに聞いてみただけやのにな。あの阿呆な店員のせいでな。もうサンダーバードはあれへん。金がなかったわけでもないねんけどな。

おっちゃんが死んだってな、よっちゃんから聞いたから、線香な。」

西宮からわざわざ駆けつけたらしい。

真史はまたマルボロに火をつけた。

「お前はまだ売ってへんやんけ。嬉しいわ。
お前がSGでな。俺がサンダーバードや。俺はピーヴィのベーアンに直や。お前はオーバードライブだけかましてマーシャルにどんや。あとはエイトビートさえあればそれでえーやろ。な。」

二人でニヤリとして、私もマルボロに火をつけた。久しぶりのタバコで私は少しだけ咽せた。

「お前が作ったな、Dだけ永遠に刻む曲。what’s say!俺あれ初めて聴いた時な、やばいなこれ、これはやばいとおもたねん。これは盲点やわ。
これはロックしてるし、パンクしてるってな。
あれから何年やねん。まぁ俺のせいや。俺のせいでバンドも無くなったし、お前も歌わんなった。」

真史は立ち上がり仏壇の前にあった茶色いハードケースを持ち上げて、私の目の前に置いた。
そうして窓際に置いてあった小さなギターアンプも見つけた。

「ピグノーズあるやんけ。えーやん。ある程度歪むやろ。やってぇや。なんでもええし。」

私はマルボロを真史に預けて、茶色いハードケースのロックをパチリと外した。
眩しいショッキングピンクの布カバーが目に飛び込む。衝撃。衝撃のピンク。
布をめくった。えんじ色のボディに黒いピックガード。ギブソンのSGは今も艶やかで美しかった。
弦は錆び付いていて、1弦と2弦が切れていた。優しく5弦を弾いてみる。ひどいチューニングだった。

僕はSGをケースから取り出す事なく、またパチリとハードケースを閉めた。

「なんや、弾いてくれへんねんな。」

真史は寂しそうな顔をした。
そうしてまた話し始めた。

「息子な。3歳やでもう。えらいもんで親父やわ。毎日な、幸せやわ。京ちゃんも元気やわ。これ以上ないわな。まあわかるよ。」

京ちゃんというのは、真史の妻で、私の恋人だった女だ。
あの日、私は全てを失って、真史はというと、半分失って、半分手に入れた。

「うまいこといってるように見せんのも、それはそれで大変やで。お前から見てどうや、久しぶりに会った俺はうまいことやってるように見えるんか?なんで歌わへんねん。お前が歌わな、お前がギター弾かな、いろいろ嘘になるねんで。
都合悪いわ。」

真史は無駄な話を続けた。
自分はベースを弾くよりも喋ることのほうが得意やったと彼は言って、唯一お前に勝ってたんは喋りやと豪語していた。

だから自分は今の仕事についた。
高級ブランド品を並べる今どきでカジュアルな質屋。繁華街で宙ぶらりんになった高級ブランドは彼の特技の喋りを経由して金に替えられていく。そういえばバンドの時もそうだった、演奏の途中のマイクパフォーマンスは彼の仕事で、
曲と曲とのあのなんとなく間の抜けた居心地の悪い時間を、彼はこともな気に心地よい時間に変えていくのだった。

真史は喋りつづける事を苦にしない。
彼の頭の言葉を紡ぎ出す装置は24時間稼働していて、基本的には休まることはない。
一時期、寝食を共にする機会も多く有ったが、
真史の寝言は芸術的だった。
夢の中での会話も彼はリズミカルで、時おり本当にその相手がここにいるかのような錯覚に陥るほどであった。
だから彼の口から次の言葉を聞いた時、私は少し驚いた。

「ちょっと最近あれやねん。うまいこと言葉が出てこうへんことがあんねん。なんやろな。頭の後ろのほうがうにゃうにゃして、なんやチョロチョロ水の流れるような音がすんねん。ハッとおもたら、ボーっとして口からよだれ出てる時あるねん。変やろ?いっぺん診てもらわなあかんわな。ところでやな。お前、結婚はせんのか?俺が言うたら腹立つのもわかるけど、せやけど、お前もう、せやろ?そろそろ。な?」

真史は私が誰かと結婚する事を望んでいた。
逆ならば、、、逆はないけれど、逆ならば私もそう思うのだろうか。

その時私の事を『薄くなった』と言っていた真史自身の姿は、古めかしい動画フィルムみたいにモノクロームに見えた。

「いっぺんまた、みんなでゆっくり集まろう」

どこにでも陳列されているような社交辞令を真史は最後に私に伝えて、
おばちゃん帰るわー!と叫び西宮に帰っていった。
まだ、新名神高速道路は途中までしか使えないのだけれど。彼はあの道路を少しだけ利用して帰って行った。

それからまたちょうど二週間たった、7月28日に今度は久しぶりに京ちゃんから連絡が来た。
懐かしい声だった。

「真史がな。死んでん」

理由を尋ねたが的を射ていない。
真史が死んだ。
彼女は意外なぐらいに淡々とその事を告げた。

自転車での仕事からの帰り道、倒れてそのまま亡くなってしまったらしい。
それが心臓発作なのか、脳梗塞なのか、
通り魔にあったのか、はたまた自死なのか、京ちゃんの説明では真実はわからなかった。

真史が死んだという事実だけは、どうやら間違いがないらしい。

8年ぶりに訪ねてきた親友がその2週間後に死んだ。そのことを8年ぶりに聞いた元恋人の声で淡々と告げられた。その友人は私の事を『薄くなった』と言っていた。その友人には色彩がなかった。

人生のスピードは複雑だ。

何の変化もない硬直したような時間がとても長く続いたり、かと思えば幾つもの意味のある事実が、一瞬のうちにスライドショーみたいに立て続けに起こったりするのだった。
真史は私に何かを言いたかったのだろう。
結局のところ、沢山の彼の言葉から私に向けられた真意を探し出すことは出来なかった。

唯一直接的に言われた事は
ギターを弾いてくれという話だけだった。

それから、京ちゃんは度々私に電話をしてくるようになった。
最初のうちは真史の話がほとんどだった。
真史はこんな映画で泣いたのよとか、
真史はゴルゴンゾーラのピッツァが大好きなのよとか、私の知り得ない真史の話を自慢気にしていた。
日が経つと次第に真史の話は過去に流れ、今度は現在の自分の息子の話をした。初めて立った時の話、運動会で遊戯を頑張った話、絵を描くことが好きな話。あまり泣かない話。祖母と顔が似ている話。それも一通り話し終えると、その次は昔の私と昔の彼女の話へと変化していった。

過去の私と過去の彼女の話には、真史が登場することはなかった。私と彼女の昔話には、彼女と真史にとっての幾つかの重要な記憶に蓋をして、その上に腰掛けているような気味の悪さがあった。
彼女の話にはいつも彼女がいた。
彼女には、彼女を形成する為の媒体が必要だった。
真史も子供も私も、彼女を形成する為の媒体の一部に過ぎなかった。
それでも、私は彼女に好意を持っていた。
恐ろしくなって、私は彼女からの電話を取らなくなった。
私は京ちゃんに手紙を書いて送った。

『サンダーバードを取り戻してくれ』

私はハードケースに眠っていたギブソンのSGを取り出して、一つ一つニッパーで弦を切り、丁寧に取り外した。ボディを乾いた布で綺麗に拭きあげ、弦を張り替えた。
アーニーボールのスーパースリンキー。
俺たちには衝撃のピンクがよく似合う。

チューニングを慎重にした。ジャカジャカとオープンコードを掻き鳴らして、チョーキングしてはまた、音階の確認を繰り返した。
左手の指が切れそうに痛い。
私はニヤリと笑った。マルボロを飲みたくなったけれど、この部屋にはそれは無かった。

SGが自らの体に巻き付いた弦のテンションを受け入れたことを確認して、私は家を出た。 



ギブソンのハードケースとピグノーズのミニアンプをスクーターに積んで私はローソンの駐車場にいた。
父が死ぬ前に立ち寄った時にもここから上空の工事の様子を眺めていた。その時よりももちろん作業は進んでいて、何かが明らかに変わっていたけれど、私には明確に何が変わっているのかを判断する事は出来なかった。
日曜日の夜はとても静かだった。ローソンには相変わらず客はいない。今日は店主一人だけで、残念ながらあの焚き火の老人も居なかった。

私は目の前に聳え立つ、工事中の新名神高速道路の橋梁を再び眺めた。眺めた後これに登ろうと決めた。
ローソンにスクーターを停めて、私はギブソンのハードケースとピグノーズのミニアンプを抱えて、橋脚の袂までズイズイと進んだ。

安全第一と書かれた黄色と黒の看板と蛇腹の門扉は意外なほど簡単に乗り越えることができた。
まるで蔦みたいに橋脚にまとわりつく鉛製の足場を下から眺めてみると、二匹のトカゲがひゅるひゅるとそれに沿って上にのぼっていくのが見えた。
足場の入り口の扉は、頑丈な鎖でぐるぐる巻きにされていて南京錠がかけられていた。
扉をガシャガシャと動かしてみる。もちろん南京錠は開かない。あたりをぐるりと見渡すと、足場の端に黒いキーボックスがかかっていた。

私はそれを手に取って、橋脚のコンクリート壁に思い切り投げつけた。
がちんという鈍い音と同時に、中から何かが飛び出した感触と石柱の欠けた埃が舞った。
私は飛び出した南京錠の鍵を拾って鎖をはずし、いよいよ新名神高速道路のその橋桁へと登り始め
た。日曜日だけれど、足場を照らすライトは煌々と光を放ってくれている。
足場の階段は螺旋状に空へと向かっていて、最後は大きく横によれて、橋の外側の小さな階段へと繋がっていた。そこを通るすぎると、私の身体はふわっと浮いたように新名神高速道路の橋の上にたどり着いた。

30メートル上空から眼下を臨む。

向こう側に見えるプレハブ小屋とその駐車場には
10トンのダンプカーが列を成して並んでいる、
揃って荷台を45度まで上げていて、まるで滑り台が並んでいるみたいだ。

すぐ下にはローソンが見える
青と白の電光看板は何故か点滅していて、
あたりを青にしたり白にしたりを繰り返している。
店内からは朧げな光が漏れる。焚き火の老人がそこにいるような気がした。

ローソンから離れて数十メートル先では、相変わらず無意味と思われる片側交通規制が行われていたけれど、備長炭のような警備員はそこにはいない。
代わりに若い警備員があくびをしながら、適当に赤色棒を振り回している。

南西に恒星のように光るダンゴムシが見えた。
またこんな時間なのに、灯りがついている。
今日の月は満月だった。ダンゴムシの体育館に負けないぐらい月は強い光をを放っていた。

周辺は工事現場の規制の光で溢れている。
まるでどこかの遊園地のパレードみたいに、
緑色や赤色や黄色や青色の発光体は乱雑に絡み合っている。

私はSGのハードケースをパチリと開けた。 
SGはピカピカに光っていた。
肩からかけたSGとピグノーズのギターアンプを
ケーブルで繋いだ。
出力をマックスにして、私はギター弾き殴った。

静寂の夜に私の音はさまざまな光と混ざり合って、円を描いて波打った。

私は目を閉じて、右手から血が吹き出るぐらいにギターを弾き続けた。

確かに、いつも孤独はそこに張り付いていた。

ローソンで会った焚き火の老人、今池小学校の泥団子の少年、機械に繋がれた父。血便にまみれた母。サンダバードを売った真史。それを取り戻さない京ちゃん。そこにはそれが必ずあった。
もともとにそこに張り付いていた孤独は生から色彩を奪い取ることで成り立っていて、それが故に懸命に生きようとすればするほど、生の歪みから出来たその隙間から、孤独はゼリーみたいにぐにょりと形を変えて体の奥の奥のほうまで侵入してくる。
彼らはそれが好物なのだ。彼らはそれを食って存在しているのだ。

人間は、生にしがみつく事で、色彩を失っていたのだ。宇宙はそれを理解している。
私一人の色彩など、宇宙や空間や時間たちからすればことさらに興味がない。
孤独が恐れているのは、死をまとった人間。
死を恐れない人間こそが、孤独の侵食を免がれて色彩を放つ事が出来るのだ。

私は今、未完成の新名神高速道路の上でギターを奏でている。そうして今から私は破れんばかりの大声で歌を唄う。
私はこれをもって抗いとする。
私は私の存在を、ギブソンのSGの歪んだギターサウンドで証明する。

周辺にあったそれぞれの光は、キャンパスの上の絵の具のようにぐにゃりと混ざり合って、私と私の音と交錯して、私自身を取り込んでいく。
空間は生温かくなって私は意識を空へと爆発させる。
不恰好に歪んだ不協和音は、近くにあった夜空に吸い込まれて無音になる。

静寂に抗って、私はまたギターを弾いて歌う。
誰も聞いていないけれど、声が切れるまで歌う。


『夜の成分を溶かした感情と
幻想の中の隠れた衝動
明日の夢を壊した言動は
経験の中の不確定な要素

明確な上下のない空間で
無意味な言葉を交わそう
僕はここに存在している
よく見れば君は灰になった

紫色の土が目の前で変化している
水分を含んだ月の屈折と反射
昨日の香りは脳にこびりつく
潤沢な血液と周回する記憶

明確な上下のない空間で
無価値な愛を交わろう
僕はここに存在している
よく見れば君は灰になった

明確な上下のない空間で
無慈悲な世界を笑おう
僕はここに存在していた
よく見れば君は空になった』

声と音は紡いではちぎれ、弾けてはまた形成する。それを周回しながらやがては闇の中で嘘のように消滅した。

私は歌い終えると、ピグノーズのギターアンプを蹴り倒してケーブルを引きちぎり、ギブソンのSGを眼下の国道24号線に放り投げた。

新名神高速道路はまだまだ未完成だった。

けれど私には
ずっとずっと永遠のまだ先まで、
この道は繋がっている様に見えた。

龍の背中に乗ったみたいに、私はどこまでも行ける気がした。

私は思いっきり駆けた。
駆けて、駆けて、駆けて、駆けて。
そうして、誰よりも高く翔んだ。










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