エラーコード
携帯電話を見ていると
、何か違和感がある。
あったはずの、何かのアプリが、なくなっているのである。
確かにそれはそこにあった。けれど今はない。
今はそこにないのだけれど確実にそこにはあった。
けれどそれが何のアプリだったのか、僕にはどうしても思い出せない。
なぜ消えたのかそれも僕にはわからない。
じっと携帯の画面を見るが薄っぺらい喪失感があるものの、機能的に、特に問題が起こったわけでもない。携帯電話は普通に使えるし、SNSも普段通りに使える。お気に入りのゲームも稼働するし、友達の名前も消えていない。
問題は無い。問題はないのだけれども何かが忽然と消えている。
そのアプリが自分にとって必要かどうかは、
もはや自分自身もわからない。
けれども、僕は今、事実、薄っぺらな喪失感に襲われている。あるはずのものがそこにないと言う事は、
必要か不必要かとは別の意味や価値をを含んでおり、これはすなわち生きるということの意義に似ている。
もう少し考えてみよう。
アプリは忽然と消えたのではなくて、
自ら携帯電話の外に出て行ったと考えられなくもない。
アプリ自身は、この携帯電話の外側に自分を見つけたのかもしれない。
あるいは、僕のこの携帯電話に留まる事のできない、何かのっぴきならない事態が起こったのかもしれない。
アプリ同士のいざこざがあったのかもしれない。
もしくは僕のアプリに対する対応が悪かったのかもしれない。
いずれにせよ、消えたアプリはあるいは去っていったアプリはここになく、それが何のアプリだったかもまるっきり思い出せない始末である。
とにかく、僕は平静を保つ必要があった。
ダイニングに行きトーストを焼いた。冷たいカフェラテを入れて、砂糖の入っていないギリシャヨーグルトを飲み込み、焼き上がったトーストに、自然由来のピーナッツバターをたっぷり塗って、食べた。
洗面台に行き、冷たい水で顔を洗い、歯磨き粉をつけない歯ブラシで、4分間歯磨きをした。
42度の熱いお湯を湯船にはり、頭を馬油のシャンプーでこすりたおし、体を清涼剤いりのボディーソープで丹念に洗った。
お湯が半分ぐらい溜まったところで、
僕はもうもうと湯気の立ち込める、熱湯とおぼしきその湯船に左足から入り、熱い熱いと悶絶をしながら、腹まで浸かった。
髭を剃り、イエスタデイを一曲適当に流し歌い、
「よし」と言って風呂を出た。
僕が化粧水をパタパタと顔に塗っている時、
突然!携帯電話が鳴った。(電話が鳴る時は、大抵の場合が突然なのだが、それよりもまだ幾分か突然であった。間違いなく)
それは、本名を知らぬ友人からの電話だった。
電話番号を交換した事すら覚えてはいなかったのだが、携帯電話の液晶にははっきりと彼の名前が映し出されていた。
仮に彼をジャックとしよう。(ジャックではないのだが、色々な理由があって今回はジャックと呼ぼう)
ジャックは、
やあやあ久しぶりじゃないか、どうしてるのかね。急になんだ、つまり虫の知らせか?まぁそんな風にね、感じたんだ、それで、電話した。
さて、どうだい?
何しろいつ以来のジャックとの会話か思い出せないくらい、ジャックとは久しく話していない。
まてよ。そもそもジャックと話した事がかつてあったのか。いや、ない。これが初めての電話であり、初めての会話であった。
やあ君はどうだい、元気にしていたのかい。
突然の電話で驚いたよ。どうしたというんだい?
何か“特別な”事でもあったのかい?
おかしな事を言うね君は。電話など、基本的には突然鳴るもんさ、そしたら何かい?君は電話が鳴る前から電話を待つってのかい?そんな事はあり得ない、それは君のついた嘘の一つさ、そうだろう?間違いないさ。
そして今だって、きっと特別な時間だろう。
君にとっての普遍が特別じゃないなんて、そりゃあ誰が決めるんだい。横暴なやつだ。
ジャックは少しだけ腹を立てた。
わかった、
悪かったよジャック。ところで今日はどうしたっていうんだい?(突然に?と言いかけて僕は言葉を飲み込んだ)
ジャック?!ジャックだって⁈これは傑作だ!
いつ以来だ?ジャックなんて呼ばれたのはいつ以来だ?思い出せないくらいずっと前だよ。
君と出会った時ぐらい、確かにそれぐらいに前の話だよ。
懐かしい響きだ。懐かしい。
けれどなんだかイライラするな。ジャック。
一体なんだっていうんだ。ジャック?
よくない名前だ。君がいい出した名前なのか?
(もちろんジャックは仮称だから、本当は違う名前で呼んでいる。ただ、大して変わらない名前なのだけれど)
僕ではないよ。ジャックと呼び出したのは、さて誰だったのか。でも確かに僕ではない。
これは仮説になるかもしれないけれど、僕はこう考えるよ。おそらくは、この名前は自然に発生してきたんだ、きっと。土からあら草の芽が出るように、暗い夜にしとしとと時雨が降りだすように。
自然に発生した名前なんて不思議だけど、とても素晴らしい事じゃないか。ジャック、君もそう思うだろう。
なるほど確かに、自然に発生した名前がジャックなら、それは納得がいく話だね。
受け入れる他ない。わかったよ。仕方ない。
たまにはいい事を言う奴だ。
ジャックは案外すんなりと納得した。
ゲジュタルト崩壊ってのを知ってるかい?
ジャックは“いつも”唐突な男だ。
ゲジュタルトっての形って意味なんだ。ドイツ語さ。それが潰れるって単純な話さ。
『部分の総和は全体の構成とは異なる』
当たり前のようでね。つまりは当たり前ではない。信じ過ぎるのも罪だし、信じなければ呼吸すらできない。
これが重要な事なんだよ。
例えば、君がマラソン選手だとしよう。走り出す前はそれこそあれこれ考えただろう。
でもいざ走り出してしまえば、ただ一心にその先を目指すだろう。相手がトラであれウマであれ、
それほど気には留めないだろう。
相手が人じゃなきゃ、私は走らないってマラソン選手がいたら、それは嘘さ。
そんなところにマラソンの真理はないのさ。
人生というのはそういうものなのさ。
走り出さないと意味を成さないのさ。
『部分の総和は全体の構成と異なる』
ジャックは得意げだった。
『部分の総和は全体の構成とは異なる』
『部分の総和は全体の構成とは異なる』
(訳がわからない)
ドイツというのはね。確かに凄い国さ。
間違いない。ヒトラーを肯定するつもりはないよ。しかし、彼は孤独だっただろう。
権利やら権力やら権威やら人権やらは。
全ての孤独の上にこそ成立するものさ。
彼はね…彼というのはもちろんアドルフの事だけど、恐ろしい孤独と闘っていたのさ。
死んでからもね。マルクスだって、アインシュタインだって、まぁそう言うもんだ。
彼らの正義に色合い的な相違はない。
わからないだろうね。まぁいーさ。
ところで、そうそう。大事な事を言い忘れていたんだ。それが本題だ。すっかり話が逸れてしまっていたね。これを聞くために僕は君に電話をしたんだよ。忘れるところだった。危ない危ない。
君、このところ何か大切な物を“失って”はいないかい?
(アプリだ)
アプリの事だと僕は思った。
そのアプリが大切かどうかはいまだに判断はできないけれど、ジャックはきっとアプリの事を言っている。僕はそう確信した。
なんだってそう思うんだい?
僕が何か大切なものを“失った”という、有益な情報を君が持っているとでもいうのかい?
僕は慎重に回り道をして訪ねてみた。
その通りさ。
ジャックは簡潔に答えた。
しばらく時が止まった。ピッタリと氷に唇が張り付いてどうしようもないぐらいに。ピッタリと。
一瞬の静寂が永遠に感じるなどと言う類ではなく。実際にジャックは何も言わなくなってしまった。
その通りさ。
と答えて移行、ジャックからの応答はパタリと
消えてしまったのだ。
電話は変わらず繋がっている。
ツーツーツー。あの無機質で孤独なリズムは僕の電話からは流れてこない。向こう側に気配の匂いも感じる。ジャックは間違いなくそこにいる。けれど、いわば仮死状態のように応答が途絶えた。
5分、10分過ぎた。もしかしたらそれ以上だったかも、あるいはたったの一瞬だったかもしれない。
あまりにも薄気味悪い時間だった。
僕は『間』に耐えきれず、声を発した。
あの…
なんだい?
間髪も入れずにジャックは返してきた。
食い気味に。
いや、何も話さなくなったから、どうしたのかなと心配してしまって。
また食い気味に
何も話さなくなったのは、君のほうじゃないか。
いつもいつも僕の方から話し始めると決めつけていたのか?僕だって話を待つ時ぐらいある。
僕の方から話さなきゃいけないなんて、
そんな決まり事はなかったはずだ、いつ決めたのか?今か?昔か?決まってない!
こんな横暴なやつは生まれて初めだ!
ジャックは憤怒していた。突然きた憤怒ではなく。水平線の向こうから迫ってくる軍艦のような、スピード感を捉えきれないそんな類いの怒りだった。
僕はね、君に一つ忠告しておくよ。
罪にならない罪だって、世の中にはあるんだよ。
社会は罪にならない罪を、あまりにも見過ごしがちだ。
踏まれて枯れたあの金鳳花だって、
心の中で笑われたあのかたちんばのかれも
その最たる被害者たちさ。
気づかないふりをするのが得意なやつが多いな。
そうそうところで、君が失った大切なものは、見つかりそうかい?
アプリはどこにも見つからない。
と言うよりも、失ったアプリが何なのか、
まだ自分にはわからずにいるのだから、
探しようもなければ、見つかりようもない。
今でも本当にアプリが無くなっているのかどうかすら疑わしい。
それが、どうにも難しそうなんだ。
僕には失ったものがどこに行ったのか、皆目検討もつかないんだよ。
そりゃあそうさ。
だってそれは、僕が持っているのだから。
ぎくりとした。
心臓が一瞬大きくなったのがはっきりとわかった。
(ジャック、君は何を言い出すのだ。
僕の失ったアプリを君が持っていることなんてあり得ないだろう。そんな事は、地球の軸がずれるぐらいに起こり得ない事だろう。
だとしたら何かい?僕のアプリは僕の携帯電話を抜け出して、小さな羽根かなんかをパタパタさせながら、君のところにまで飛んでいって、君の携帯電話に入っていったというのかい。
はたまた、君の枕元でいや君の胸に顔を埋めて、眠っているというのかい。
そんな事を僕は断じて容認する事はできないよ。)
ジャック。それは。つまりその僕の大切であろうものはどこで見つけたんだい?
拾ったのさ。落ちていたからね。
それで君に電話した。
困っているだろうと思ってね。手前味噌だが、
僕はそういう何というか、慈悲深い。
しようがない。僕はそういうところがあってね。
送ろうと思う。だから送り先の住所をね。尋ねるつもりで、君に電話したんだ。
送るよ。免許証を。
『アプリ』ではなく『免許証』
(免許証だって?)
ああ。ああ。ありがとう。助かった。
どこにいったかとすごく探してたんだ。ありがたい。一体どこで落としたのか。こんな大切なものを。何とお礼を言っていいのか。
そうだ、今度、お礼にお食事でも!
もちろん、僕がご馳走するよ。とても美味しいお気に入りのピッツァがあるのさ、特にね、マリナーラがおすすめなんだ。生地をね。生地を堪能するならマリナーラが一番なんだ。
そう言ったところで、ブツリと電話が切れた。
ツー。ツー。ツー。というあの噂通りの無機質なリズムが今度は確かに僕には認識できた。
もちろん、その向こうのジャックの存在は完全に消え失せて、僕は真っ白な孤独の真ん中にポトリと落とされたカナブンみたい狼狽している。
ひっくり返されたカナブンは6本の手足をウネウネと懸命に蠢かすが、必死にもがけばもがくほど、それは喜劇的で滑稽で、見窄らしい。
時計の針はいつもの1秒より少しだけ早く動いている。聞き慣れたポップスの打ち込みのサウンドみたいに、僕に何かを急かしている。
僕は鞄を弄って、財布を取り出した。
健康保険証と病院の診察券、どこかのカーショップの会員カード、クレジットカードが一枚と銀行のキャッシュカードが2枚あった。
一枚見たこともない銀色のポイントカードの裏側に張り付くように僕の免許証があった。
ジャックは免許証を拾ったと電話をしてきたが、
僕の免許証は僕の財布に変わらずあった。
僕は免許証を取り出して、間が抜けたような顔をした写真の部分をごしごしと服の袖で擦ってみた。
擦ってみて、じっくりと写真を眺めてみた。
その写真は間違いなく僕の顔であった。
けれども、見れば見るほど、それは僕と全く同じ顔をした赤の他人である事がわかった。
僕と同じ眉で僕と同じ瞳、輪郭も鼻口も全く僕と同じものを貼り付けているものの、それが僕とは違う全くの別人であることが僕にははっきりとわかった。
電話が鳴った。
突然になった。もちろん電話なのだから。
けれどもなんだか、僕には鳴ることがわかっていた。
電話の相手は恋人だった。
久しぶり。
屈託も疑いもなく彼女は言ってから、
ひとしきり他愛もない話をした。
特に思い出話を多くした。
二人で京都の金閣寺に出かけて、その裏側に回って釣殿から誰かが釣りをしているところを想像して議論したことや、
初めてキスをした話や、川沿いに一本だけ立っている桜の美しさについても話した。
考えてみれば、
未来の話など一切しなかった。
恋人に別れを告げて電話を僕から切った。
次は母親から電話がかかってくる予定だった。
亡くなった母親からの電話は、とても明るかった。話しているといつになく冗談を言うので、
何だかおかしくなって腹を抱えて笑い転げてしまった。
あんたが子供の頃、よくお風呂でうんこを漏らしたのよ。
カレーうどんにむせて、鼻から出てきたこともあったわ。
あんたは優しい子だったね。ありがとうね。
時間の経過と共に、次第に母親の声がしゃがれていくのがわかった。そのうち声はとても小さくなり、最後には、肺から空気が漏れたみたいに、ヒューヒューという息使いだけになった。
僕は母親が何を話しているのかわからなくなった。なんとか聞き取ろうと携帯電話に耳を擦り付けたけど、僕には読み取ることができなかった。悔しくて悔しくて居ても立っても居られなくなり、電話を切ってしまった。
バケツが一杯になるぐらい涙がとまらないので、
僕は部屋の窓を開けて、思いっきり叫んでみた。
窓からは継ぎ接ぎのような冷たさを纏った、
色なき風が舞い込んできた。
窓から様々な屋根が見える。青や緑や茶色の瓦屋根、鈍色のトタンや打ちっぱなしのコンクリート。その景色には、ひとっこ一人として誰もいなかった。
僕は携帯電話を見た。
やっぱりアプリが一つ無くなっている。