美味しい、は私を救う。

いつからだろう。
「美味しいものでも食べて元気を出そう」と考えるようになったのは。

生まれてから幼少期、思春期を通してずっと食に興味がなかった。
食が細い、というわけではない。量はそれなりに食べる。
けれどこれといって好きな食べ物もないし、美味しいものを食べたところで大きな感動もない。3食食べねばならないことが面倒くさく、毎日エネルギーゼリーでも平気だった。
そんな人間が、なぜ今浮き立った気持ちでカルディの冷凍シナモンロールを3つ抱え、家路を急ぐようになったのだろう。

家につき、手を洗い、シナモンロールの袋をひとつ開ける。電子レンジで1分。温まるまでの間、スツールを引っ張ってきてレンジの前に陣取る。ちらとリビングに目をやり、子供がテレビに夢中になっているのを確認する。
ここで見つかると、シナモンロールのほとんどを子供に取られてしまう。私はキッチンのすみっこで、気づかれないようにふわふわのシナモンロールを食べるのだ。
もちろん子供の分も買ってある。しかし今温めたこのシナモンロールは、私の英気を養うため。明日をまた駆け抜けるためのガソリンとなるのだから。

シナモンの香りと、しっとりと甘いチーズフロスティング。一口一口噛みしめるたび、身体中の細胞隅々に幸せが広がっていくのを感じる。
少し前までの私には、感じることができなかった感覚だ。

食事が美味しいと思えるようになったのは、高校生の頃である。

育った家は食事の時間が退屈で、苦痛で、楽しく話し合いながら食べるということがいっさいなかった。
「飯は黙ってくえ」という家風で、少しでもふざけると祖父の雷が落ちる。
今日一日の間に起きた学校での出来事や、通学路での新たな発見の報告などとんでもない。
毎日怒られないようにビクビクし、常に緊張しながら食事を食べていた。まるで禅寺のような食卓だったのだ。
そんな緊迫感に包まれた雰囲気のなかでは、料理の味などしない。何を食べても心から美味しいと思えなかった。
唯一、祖父が料理の味について「これは美味いな」とこぼすときだけはホッと胸を撫で下ろすことができた。祖父の機嫌が良くなって怒られる確率がグッと下がるので、いつもより幾分か気分が軽くなる。
中学生になる頃には、食事=神経をすり減らす時間という方程式が完全に組み上がっていて、私はすっかり会食恐怖症になっていた。
給食以外の場で友達と食事を摂るのがいやで、幾度となく誘いを断っていた。

高校進学と同時に引っ越すことになったが、祖父は暮らしていた土地に残ることを選んだ。
祖父と離れたことで、食事の時間はたいそう気楽なものとなった。

少しずつ緊張が解けてゆき、新しくできた高校の友達とは放課後にアイスを食べたり、ラーメンを食べに行くようになった。
くだらない話に花を咲かせて、笑い合いながら食べることがこんなに楽しいものだとは。

そして我が夫は、人生の楽しみのウェイトの7割が「食」という人間である。
美味しいものはもちろん、対して美味しくないものまでなんでも幸せそうに食べる。
美味しい、美味しい、と言いながら食べる彼と一緒に暮らしていると、不思議と私も美味しいものを食べたくなるのだ。
「美味しいものを食べると元気が出る」という彼の持論はいつしか私にも伝染し、美味しそうなものをみつけるのが楽しみになっていた。


「美味しい」は、幸せの証だ。
余計なことに神経を削がれず、食感や香りに集中して食事ができるほど、安らいだ気持ちで日常を送れているということなのだから。

美味しい、は私を救う。
たとえ落ち込んだことがあっても、悲しいことがあっても、食べ物を食べて美味しいと感じることさえできれば、それは充分に幸せであるという証拠なのだから。

余談
カルディで見つけた冷凍シナモンロール。安くはないけどおやつにあると、家族みんなが幸せになれます。

同じカルディでの期間限定商品、
「みかん泡酒」

日本酒のスパークリングにみかん味が合う!!
日本酒苦手な人でもぐいぐい飲めるけど、調子に乗ると酔う。物足りないくらいでやめておくが吉!

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高原羊(たかはら ひつじ)
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