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亡くなった人から、まさかの贈り物

◆ よそはよそ。うちはうち。

人が亡くなった話を書くことは、あまりしない。

感傷的になりやすい可能性も高いので、逆に妙にドライに書きがちで、自分の心がなぞっている場所は、するすると舗装されたキレイな道のような気がして、どこかズルい文章な気もしてしまう。

そんな中、ひとりの従姉妹のことは約10年前から時々書かせてもらっている。

「私のことで、何かあんたが伝えたいことがあったら、なんでも書いてもらっていいからね」

亡くなる前にそう言ってくれたことが大きい。

彼女は看護師、そして癌で若くして亡くなったので、検査に定期的に行くことを伝え続けて欲しかったんじゃないかと想像する。

けれども、私が伝え続けてきたことはそこじゃない。すまん。

すごく雑な言い方になってしまうけれど、おおまかに言えば

「死ぬって、どういうことだろう」
「生きていくって、どういうことだろう」
「人生というものは、なんなんだろう」

ということに対する私なりの答えを書き続けている。

それぞれ度合いの差はあれど、生きていれば、それなりに死にたいとか消えてしまいたい思うことぐらい、かなりの人の中であるんじゃないかと想像する。

実際そうするかしないかは大きな違いだが、とにかく密かに思うことぐらいはあるんじゃないかと。

そんな中、あなたが生きた今日は、死んでいった人が生きたいと思った今日なのだ、みたいな有名な表現をよく目にするけれど、正直私にはピンとこない。

こんなこと言って、読む人によってはデリカシーがなく聞こえてしまったらごめんなさい。

良いとか悪いとかじゃない。正しいとか正しくないとかでもない。

とにかくピンとこないだけなのです。

「よそはよそ、うちはうち」

みたいなもので、それぞれに与えられた時間や命は個々のものであり、誰かのものじゃないわけで、自分がきつい時に都合よく他人を意識するのはどうもしっくりこない。

他人と自分。ここはしっかり分け、それぞれの人生に敬意をもって生きるようにしてきているのに、生死の話になると、突然誰かの人生もまぜこんで思考してみようというのがわからない。

ロマンティシズムとか方便という範疇で捉えてというならわからないでもないが、でも人の命をロマンで語られてもなあと。

亡くなった人が生きたかった日を生きていると思うなんて、私にはおこがましくてできない。

それはそれだろうと。

そういうものによりかからず、自分の人生は、自分の時間は、自分で責任を持ってせいいっぱい生きるしかないと思っている。

誰かの代わりにご飯を食べたりトイレに行ったりしてあげられないように、どうやったって、代わりには生きさせてもらえないし。

その気持ちは、身近な人間を亡くしても変わらない。

ただ、人の「生きたかった」という思いは、未来に思わぬ形で届くものなのだなという出来事が最近ありました。

人生というものはこういうものなのだなぁとある意味でストンと自分の奥に届いたものがあっただけじゃなく、本当に物まで届いたので、シェアしますね。

(いやほんとに届いたんだって、びっくり!)

◆ 死の直前の普通

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