『チロルの秋』について考えてたこと

3月末までの稽古の中で、自分がこの作品について考えていたことを書いておこうと思います。

作品を観る前に演出家のコメントなんて読みたくないという方は、ここでページを閉じましょう☆(延期時期は未定です)





さて、最初のト書き。

時 一九二〇年の晩秋

処 墺伊の国境に近きチロル・アルプスの小邑コルチナ


1920年の晩秋とは、第一次世界大戦が終わって二年、特にコルチナ辺りも戦場となったイタリア戦線は11月4日(晩秋)に休戦協定が発効しました。ちなみにステラが一人で旅をしている期間も二年です。

岸田國士全集19に、「チロルの旅」というエッセイというよりはほとんどメモ書きのような短文が載っているのですが、この中に『チロルの秋』の中のいくつかの台詞が書き留められています。

作家はベルサイユ講和条約の後、墺(オーストリア)と伊(イタリア)の国境を話し合う委員会の通訳に雇われたそうですが、その時に戯曲を書くためのいくつかのイメージを既に拾い集めていたんですね。

コルチナ(Cortina Dampezzo)は1952年冬季オリンピックの開催された土地で、夕暮れ時にはこの地特有の鉱物質ドロマイト(生物の死骸が海底に積もってできるらしい)を含む岩盤が、バラ色に染まるそうです。

登山道には今も第一次世界大戦の塹壕の後が残り、展示・公開されているみたいです。


今回の舞台の設定を考えるにあたって、ト書きから調べていった以上のようなことがとても重要な役割を果たしました。

2年前までに人がたくさん死んだ場所で、2年間喪服を着て旅を続けているステラと、やはり長い期間旅を続けているアマノがたまたま同じホテルに滞在する。

二人は、それぞれ、コルチナに来てからお城の公園でほとんど毎日夕陽を眺めていて、いつともしれず互いが同じ行動をとっていることに気付き、相手が自分と近しい人間である(=同じ傷を抱えている)ことを察している。

互いに踏み込まれたくないし、踏み込みたくないから声を賭けはしなかったが、「最後の晩」という言葉がある感傷を生みだし、注意深く一線を引きつつも、互いの傷を「空想の遊戯」という形で慰めあおうとする。しかしその空想の遊戯をしたことで歯止めが外れて、相手に何かを求めたくなるし、自分もわがままを言いたくなる、人と思い切り関わりたくなる……

死のイメージは最初のエリザの台詞にも現れていて、

「明日はあなたがおたち、明後日はアマノさん……。

 さうすると……

 あとは、此のホテルも空っぽ……」

というように、明後日には人がいなくなることが確定しているこのホテルでは、むしろ人がいる今の状態が夢のようにも思えるかもしれない。

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それからアマノが異常なこだわりを見せるステラの眼。

「ああ、これ、これ…… 

 この眼……(ステラを抱く)」

ちなみにこのセリフをケイン君はとても苦労しておりました。いや、大変なセリフですよね…

「この眼」にアマノが何を見えているのかは戯曲では語られないんですが、アマノの根本的な問題である「日本人であること」「日本という母国とどう向き合うのか」を、母親(日本)に対する愛憎というようなところと重ねれば、何か見えてくるんじゃないかと思い、ややマザコン気味のアマノが出来上がってきていました…

大体そんな感じの道を、作れたかな…と思っていたところだったので、まだこの先詰めていくともっと違うものも見えてきていたかもしれません。

延期したときには、これを踏まえたうえで、もっと飛躍出来たら…と思います。

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