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Victorious Centuryを読んで

はじめに


2023年は久しぶりにまとまった英語の文章を読んでみようと思って、自分の好きなイギリス近代史に関わる英語文献を探してみた。

とはいえ、専門的な議論を細かく勉強していくのにも骨が折れるので、以下のような意図をもって読書に励みたいと考えた。

①イギリスの近代史に関する専門的な知識を身に着けたり最新の学術研究の動向を調査するというよりは、体系的にまとまった知識を学ぶことができる。
②ただし、専門家が読んでも一定の水準が担保されていると見なされるもので、かつ一般の読者が読むことも困難ではない内容のものを選択する。
③単にその分野の知識を学ぶだけでなく英語学習にもなる。

以上を踏まえて、David CannadineのVictorious Century: The United Kingdom, 1800-1906を選択した。

同書は単行本で600頁を超える大著で、本文だけでも500頁を超える労作である。しかしながら、内容は比較的平易で、19世紀イギリスの専門的な研究成果を踏まえながらも一般読者が読み進めやすいつくりになっている。

今回は同書の内容と感想について簡単に述べたいと思う。


本文全体の目次は以下のとおりであり、1800年から1906年までのイギリス(正確に言えばイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド)の歴史を時代順に叙述していくオーソドックスなパターンとなっている。

同書の目次


Prologue
1. Act of Union, 1800–02
2. Britannia Resurgent, 1802–15
3. Great Power, Great Vicissitudes, 1815–29
4. The Iconoclastic Years, 1829–41
5. The ‘Hungry’ Forties, 1841–48
6. Great Exhibition, Half Time, 1848–52
7. Equipoise and Angst, 1852–65
8. Leaping in the Dark, 1865–80
9. ‘Disintegration’ Averted?, 1880–95
10. Jubilation and Recessional, 1895–1905
11. General Election, 1905–06
Epilogue
Illustrations
A Note on Further Reading

とはいえ、イギリス史や世界の近代史を学ぶ人であれば、1800-1906という時代設定というのは特異に思われるかもしれない。その点についてはプロローグにおいても説明がある。例えば、19世紀のイギリスに関する体系的な歴史叙述は、ナポレオン戦争が終了する1815年から第一次世界大戦が始まる1914年までとするものが多い。もっと広いスパンで「長い19世紀」を捉える場合は、小ピットが24歳で首相となる1783年から第一次世界大戦が終了した1918年までを射程に置いて叙述を展開する研究もある。

それぞれの時代区分については相応の意味があり著者の歴史叙述に関する一定のパースペクティヴが示されるが、キャナダインの同書は、むしろ今まで試みられていない新たなパースペクティヴを提示する意義が強調されている。つまり、イギリス(イングランド、ウェールズ、スコットランド)とアイルランドの合同法が制定された1800年から、総選挙での自由党の地滑り的勝利で終了する1906年までが同書の歴史叙述のスパンとして考えられている。

感想


同書全体の特徴として私が感じたものについては、以上の時代区分も参考として以下のものが挙げられると思う。

①連合王国の歴史ということもあって、イングランドを中心とした歴史叙述に偏りすぎないような配慮がされている。

1800年にアイルランドも含む連合王国が成立したとはいえ、イングランドとアイルランドの間の緊張関係が何度も示唆されており、決して一枚岩なものではなかったことが分かる。
また、アイルランドのジャガイモ飢饉による人口減少が印象的ではあるが、イングランドの主要都市以外にもスコットランド、ウェールズの都市の人口動態や経済状況についての記述もあることも特徴的だ。

②イギリスの政治史における重要な政治家を通して議会内外の状況を捉えている。

著名な政治家として、少なくとも以下の人物について具体的な人物像や政治家としての施策や評価などが物語風に記載されている。

小ピット、ウェリントン、カースルレー、カニング、リヴァプール、グレイ、ピール、パーマストン、ダービー、ディズレーリ、グラッドストン、ソールズベリー、ジョゼフ・チェンバレン

グラッドストンやディズレーリに関しては世界史の教科書に掲載されるほどの有名な政治家で、イギリス議会政治の黄金期に活躍した人物であり、ライバルとして描かれることが多い。同書ではグラッドストンの財政分野の知識や実務能力の高さや大衆を惹き付ける弁論術など、政治家としての能力を高く評価している一方で、ディズレーリは野党で過ごした期間も長く行政家や立法者としての評価は低いように見受けられた。ヴィクトリア女王との関係性は真逆ではあるが。

他の政治家についても様々な評価が与えられるが、この手の歴史叙述は、その政治家が首相ないし権力者であった際の内政と外交が分かりやすく読み取れるという点が特徴的である。そして、当該政治家がイギリス議会政治において果たした功績や挫折が具体的な法律制定や国際条約の締結の過程に見て取れるだけでなく、同時代人との比較や同時代人による評価、後の研究者による評価など多層的に検討されるため、重要な歴史的事象の展開やプロセスだけでなく具体的な人物像を読者に上手く想像させることに成功している。

③政治史に偏りすぎず、経済、社会、文化についての記載もバランス良く記載されている。

19世紀イギリスの歴史ということもあり、現代の歴史家であれば、特定の分野に特化した歴史叙述ではなく、様々な研究成果を踏まえた網羅的なものが求められる(とはいえ、多様な歴史家が執筆を担当し、論文集のような体裁でテーマ史を列挙して19世紀のイギリスを概観するような作品もある)。

同書では、経済指標の比較(時代、地域)、階級の比較(上流、中流、労働者)、男女の比較(女性史、ジェンダー史の意識)、他のヨーロッパやアメリカとの比較(産業革命や帝国主義の文脈)、文学・芸術作品や科学者の発明などがよく取り入れられている印象を受けた。この時代においても一定の影響力があったと見られる宗教についてはやや記述が控えめであるため、その分野に疎い日本人には取っつきやすいかもしれない。

④イギリス帝国、植民地についての叙述が多く見られる。

19世紀はイギリスが帝国として世界の覇権を握った世紀と言われるほど、本国と帝国植民地の関係性は重要であった。ソールズベリーが何度もイギリス帝国の“分解”を怖れていたという記述が印象的だが、本国とは政治制度や社会の仕組みが異なる植民地においてどの程度の規制を行い統制を図るのかと現地の自立性を尊重するのかは難しい問題である。

この点については、イギリス社会内部での階級的利害の対立や、連合王国の各構成国の利害対立とも併せて記述されており、イギリス帝国が繁栄を極める間も様々な緊張状態が存在していたことを読み取ることができる。

帝国主義の時代背景から、西洋列強の植民地争奪競争や経済的な覇権争いは激化し、ドイツやアメリカの台頭で世界の覇権国家としての地位を脅かされていくイギリス社会(ただし政治家や比較的上流の社会)の不安や疑念をビビッドに描き出している。

以上のように非常にバランスの取れた内容となっており、この時代のイギリスの歴史が好きな人にとってみれば満足のできる内容かと思う。

気になった点

以下簡単ではあるが、同書を読んで気になった点を列挙する。単なる疑問である。

①1800-1906年という時代設定の有効性は十分とは言えないのではないか。

プロローグで説明のあったように、連合王国にアイルランドが組み込まれた1800年というのは連合王国の歴史を描く上で意味のあるものだとは思うが、1906年の自由党の地滑り的勝利と20世紀最初の改革的な政府の誕生を終点にするというのは少々強引なように見えた。その部分の妥当性についての言及も少ない。

連合王国の歴史という意味ではむしろ、第一次世界大戦のさなかのイースター蜂起からアイルランドの独立戦争を経てアイルランド自由国が成立する1922年を終点とした方が一貫性があるように感じられる。

19世紀の歴史の展開に注力した結果、全体として著者の歴史観の投影は控えめで、ニュートラルと言えばニュートラルだが、作品としての一貫した価値観や重要な概念が提示されることはなく、良くも悪くも網羅的なイギリス近代史といった内容かと思う。

②同時代に生きた庶民の顔が見えづらいのではないか。

内容が非常に幅広いので限界があることは理解しつつも、政治家や著名な科学者、芸術家の活動や言葉に留まらず、労働者階級や庶民の生活の実態が窺い知れる内容があるとより良いかと思った。

経済指標は多く持ち出しているので、それによってある程度の生活水準は推し量ることができるが、社会における多様性をそれで網羅したことにはならない。ロンドンが世界的な大都市として栄えていた一方で、イーストエンドのスラム街やロンドンの港湾労働者(未熟練労働者)の生活苦を軽視するわけにはいかないし、ジャガイモ飢饉で多くの人が亡くなり、大量の移民がアメリカ大陸に向かったことについて、実際その時代に生きた人々は何を考えていたのかがやや不透明だ。そのような貧困だけでなく、産業革命に伴う生産性の向上と生活水準の改善によって恩恵を被った労働者の生の声というのも気になるところではある。

史料的な制約や紙幅の問題もあり、何を歴史叙述の題材として選択し、何を選択しないかは非常に重要な問題であり、概説的な歴史の場合、さらにその難易度も上がる。そのことについて私のような凡人が口出しすべきではないのだろうが、面白い歴史叙述にはもっと面白いものを期待してしまうのが歴史好きの性なのかもしれない。

おわり