3月11日、あの日から8年の日をカナダで迎えて。
あの日から8年が経った。
2011年3月11日。
福島県川俣町(かわまたまち)に3人の子供と住んでいた私の人生を変えた日。
あの時の恐怖と原発事故の深刻さを悟ってからの緊迫感は今でも忘れられない。
それでもやはりあの感覚と記憶は風化しているという実感があるのが悲しい。
避難の手記を書いたお陰で覚えているのだけど。それは後日。
地震が起こり、働いていた豚舎から飛び出た私は目の前の山がガッガッガッと揺れて岩がゴロゴロ落ちてくるのを見ながら、地球が壊れるかと思うくらいの大きな揺れの中で立っていられずしゃがみ込んだ。
地割れがあちこちに走っていた。
幸い私も家族も無事だった。山あいなので津波も来ず、町の人で亡くなった人はいなかった。
ただ、原発がメルトダウンしていた。それを知る余地もなかったけど。
地震の翌日に危機を直感して避難を始めた。離婚していたので、私と子供3人の4人で。
3月13日早朝、千葉県柏市到着。母のアパートにいったん落ち着く。
3月15日午前、首都圏でも通常の数十倍の放射性物質が検出されたというニュースを聞いて更に避難開始。母も連れ出すことになった。
翌日早朝、和歌山に到着。母の実家が祖父母の亡き後そのまま空き家であったのだ。
そこで1年半暮らし、マレーシアに避難移住。
マレーシアで2年半。
私はいったん日本に帰り、子供たちはブータンの私立学校に入れてもらい寮生活を10ヶ月。
私が先にカナダに来てカレッジに入り、家を見つけ、子供達を迎えに行った。
カナダで3年半。
今ようやく永住権の申請が済もうとしているところ。
震災時小5だった長男は今年20歳、成人になる。ビザが切れて日本に戻ってしまったけれど。
小4だった次男は18歳に。
小2だった娘は16歳になった。
二人ともカナダの高校を卒業する予定。
あの時はまさかこんな未来があるとは思わなかった。
市民権を取れていないから、まだ安定した位置にはいない。長男を呼び戻したい。子供達の就職を見届けないと安心できない。
それでも、子供を一時期でも守れた。
子供の笑顔を見守れた。
他の誰をも守れなかったけど、それだけでも私の逃避行は意味があったのだと思いたい。