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震災から10年、福島から海外へ避難して~Ⅳ 3月13日 ゴミ屋敷の母の家

1. 物がいっぱい!

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 朝早かったので起きているかな?と思いましたが、母は起きていました。次男と娘を起こし、みんなで母の家に入りました。
ドアを開けた途端、玄関には大人の腰より高く物が積まれ、靴を脱ぐ場所もあまりないほどでした。私は予想していたことでしたが、子どもたちは心底びっくりしていました。次男が小さな声で私に「これどうしたの?」と何度も聞いてきました。
 台所に入っても、棚から物があふれ、床が見えないほど物が散らかっていました。テレビで見るゴミ屋敷、片づけられない女症候群の部屋と一緒でした(後で分かったことですが、母は認知症にかかっていました)。
 長男は「ああ、そうか。」という表情でしたが、次男と娘は純粋にびっくりし、「おばあちゃん、なんでこんなに散らかってるの?」と無邪気に聞いていました。母もまた無邪気な人ですから、「地震で物が落ちてぐちゃぐちゃになったのよ。」と答えました。長男は「ウソだろ!」という表情でしたが、下の二人は、「そうなんだ。」と納得していました。二人とも素直だね!笑
 「うわー、私たちの寝る部屋あるかな?でも昨日の夜から行くって伝えてあるから、寝るスペースぐらい片づけてくれているはずだよね。」と思いながら奥の部屋に行くと、やはり、物が一杯で床が見えない部屋でした。一睡もしていないからすぐ寝たいのに、「あーあ、いつ寝られるか分からないな。」と、少しがっかりしました。
 とにかく4人が横になれるスペースを確保しなければなりません。母にお風呂の準備をしてもらう間、片づけをしました。服、箱入りの民芸品、布きれ、しょうゆ、何かの紙、その他雑多なものが、床の上にも足踏みミシンの上にもあふれていました。押入れに入れようと思ったら、押入れも布団、民芸品、服、その他わけのわからないものでいっぱいでした。
 取り入れて積んであった洗濯物は母に渡し、残りの物は、とにかく端に寄せて積み上げました。最初は整理しながら片づけようと思ったのですが、途中であきらめました。
 物をどけると、下に布団が敷いてあるのが見えました。6年前に家族で遊びに来た時に見たな、と思い聞いてみると、「ああ、そうだよ。その時からさわってへんよ。」と平気な声。ギョッとしました。布団をどける場所もないので、ともかくベランダに干しました。
 なんとか2畳近くのスペースが空きました。狭いですが、ここに4人寝るほかありません。私たちの荷物を運び入れるとさらに狭くなりました。
 まずはお風呂に入りたかったのです。3月10日の夜から、もう3日も入っていませんでした。特に私は養豚場で働いたあと、シャワーも浴びていなかったので、髪の毛から足の先まで豚臭く、体がべたべたして気持ちが悪かったのです。
 子どもたちをお風呂に入れ、自分も入り、ようやく人心地がつきました。
寝ようかと思ったのですが、お風呂から出たら体も心もすっきりして眠たくなくなりました。長男はテレビでアニメの『銀魂』を見ていました。次男と娘は、近所に探検に行く、と言って出て行きました。

 突然、知らない携帯電話の番号から電話がかかってきました。取ると「奈良の小出です。」と男の人の声。誰だか思い出せず、奈良ということは多分離婚したもと旦の親戚だろうと思い、あたりさわりのない会話をしていました。でも、とても親しそうな口ぶりで心配してくれているので心の中で疑問符が大きくなっていると、「妻のカタリーナに代わります。」の言葉でハッと思い出しました。
 奈良の幼稚園で長男が一緒だったヤン君のお母さん、カタリーナさんの旦那さんでした。カタリーナさんはポーランド人でポーランド語と英語しか話せず、先生との意思疎通に困っていたところを横から口を出して以来、毎日おしゃべりしていた仲でした(ほとんどは一方的に彼女が英語でしゃべり、私は相槌を打つだけでしたが)。福島に引っ越してからも何回かはメールをやり取りしていたのですが、英語で打つのがおっくうで、つい疎遠になっていたのでした。
 久しぶりにカタリーナさんと話したのですが、さびついた英語はなかなか出てこず、また旦那さんに代わってもらいました。小出さんは、欧米では80㎞圏外への退避指示が出ていること、千葉よりももっと西の方が安心だということを話してくれました。欧米人の知っているニュースや欧米人の感覚と日本人のそれとは大分違う、ということでした。そうだろうなとは思いつつも、インターネットでの情報が得られないのでどうしようもないと思いました。でも、今から振り返ると、小出さんの言う通り、柏に着いた時点で安心しないで、素直に和歌山まで避難すれば良かったと思います。人間ってなんて保守的なんでしょうね。一旦決意して避難したのに動きたくない、現状を変えたくない気持ちで彼らの勧めを素直に聞けませんでした。後悔しています。


2.公園に行こう!

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 朝食後、次男と娘が遊びに出たがりました。遊びに行く場合ではないとも思ったのですが、原発から離れひと安心という気持ちもあって、どこか連れて行ってやろうと思いました。行ったことはないのですが、広いらしいので柏の葉公園に車で行こうと思いました。長男は家でテレビを観ていたいと言うので置いていきました。 
 まず、コンビニを探して車を走らせました。柏市は私が8歳から20年間住んでいた街ですが、豊四季台は私が住んでいた所と少し離れているので土地勘がなく、袋小路に入ったりしましたが、ようやくコンビニを見つけ、千葉県の道路地図を買いました。
 柏の葉公園の周りには国立がんセンターや東大柏キャンパス、東大物性研究所、大きな企業などがあり、学園都市のようでした。公園なのに駐車料金がかかることに躊躇しましたが、折角なので入ることにしました。
案内板を見て、遊具のある方へ行くと、多くの親子連れがいました。さすが大きな公園なので、小学生が遊んでも楽しそうな遊具や丘、湖には貸しボートまでありました。二人は滑り台のある大きなアスレチックで嬉々として遊びました。
 娘がボートに乗りたがったので乗り場に行ってみると、料金が高かったのであきらめてもらいました。親子連れだけでなく、犬を連れている人もざっと数えただけで30組ぐらいいて、しかもその犬が珍しい犬種だったりおしゃれな服を着せられていたり、皆愛玩度合いを競い合っているような気がして、「都会だなあ。」と少し冷ややかな目で見てしまいました。
 一度家に帰り、お昼を食べてからまた柏の葉公園に行きました。
 長男はぐっすり眠っていました。私はその寝顔を見ながら、「ご苦労様。」と心のなかでつぶやきました。そのまま起こさず、また下二人だけ連れて行きました。
 この日もいい天気でした。福島とは暖かさが全く違い、子どもたちは暑がっていました。福島の5月ころの暖かさでした。
 午後からはさらに親子連れが多くなり、日曜日の午後ですし、何十組もの親子が芝生の上で遊んでいました。お母さんだけでなくお父さんも一緒の家庭が多く、どのお父さんお母さんも垢抜けた格好をしていて、都会だなあと思いました。幼稚園くらいの小さな子どもたちが無心に遊び、親が撮影したり相手してやったりしている幸せそうな光景を眺めていると、震災とは無縁の平和な光景で、ついさっきまで自分が経験してきた世界と別世界のような気がして、違和感で心がキリキリしました。
 

 この、柏の葉公園が、のちに放射線量がずば抜けて高いホットスポットとなるなんて!あの、あんなに沢山いた子どもたちが5月頃にはほとんどいなくなったそうです。本当に驚きました。3月21日の雨で放射線量が上がったという話なので、私たちもあやうく被曝するところだったとぞっとしました。でも、3月、4月と、何も知らない親子がたくさんこの公園で遊んでいたのだと思うと、東電に対しても情報を公開しない国に対しても、怒りが込み上げてきます。柏の葉公園は、年が明けた2012年2月17日にも、新たに園内3か所で最大3.42マイクロシーベルトが検出されたと発表されました。まさにホットスポットです。

3.小さな行列!

 買い物に行こうと思い、地図で調べ、国道16号沿いのイオンタウンに行きました。車の長蛇の列が出来ていました。普段を知らないので、行列が特別なものかどうかはわかりませんでした。ようやくイオンタウンの駐車場に入ると、警備員さんに、電力不足のため15時で閉店ですと言われました。あと5分でしたが、食料品を見にジャスコに行きました。このときは、特に物不足は感じませんでした。
 続いてガソリンスタンドに行きました。小さな行列ができていましたが、私は洗車だけだったので、横眼で見てスタンドに入りました。洗車機に入り、丁寧に拭いていると、ようやく放射能汚染から逃れられた気がしました。
 これが3月13日の午後の首都圏の状況です。行列はあったものの、深刻な物不足、ガソリン不足はまだありませんでした。
 夜は、近くにある持ち帰りのお寿司屋に家族で買いに行き、みんな好きなものを母に買ってもらって食べました。

4.【3月13日の原発の状況と異常な放射線量】

 私は千葉まで逃げたのでもう安全だと思い込んでいました。しかし、チェルノブイリ事故のような水蒸気爆発がもし起きていたら一瞬で首都圏も退避圏内になっていたことをあとで知り、本当に知識は大事だと思いました。
 3月13日も1号機への海水注入は続けられていましたが、水位は十分に上がらず、燃料棒の露出が続いていました。さらに、2時44分には3号機の冷却装置が停止し、冷却水が沸騰して水位が下がり、4時15分から燃料棒が露出し始めました。爆発の危険性があるため、東京電力は8時41分、3号機のベントをし、12時55分には燃料棒の上部1.9メートルが冷却水から露出したため、13時12分から3号機への海水注入に踏み切りました。
 枝野官房長官の記者会見で、「13時52分に第一原発の周辺でこれまでで最も多い1.5575ミリ(1557.5マイクロ)シーベルト/時を観測したが、14時42分に0.1841ミリ(184.1マイクロ)シーベルト/時に低下した。」ということが発表されました。
 同じ日に、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)の会員5人(森住卓、豊田直巳、山本宗補、野田雅也、綿井健陽各氏)と広河隆一氏(DAYS JAPAN編集長)は現地に向かい、午前10時20分、双葉町役場玄関付近で放射線を計測しました。三台の機器(1000マイクロシーベルト/時、10ミリレントゲン/時、19.9マイクロシーベルト/時まで測れる機器) を使用したところ、すべての測定器が振り切れました。10時30分頃、双葉町厚生病院玄関前でもすべての計測器が振りきれました。(DAYS JAPAN緊急プレスリリース)。この時、国道288号線を双葉町に向けて多くの人々が自宅に荷物を取りに向かって行っていたそうです。避難指示は出されていましたが、すべての住民が双葉町の高汚染について知りませんでした。立ち入り禁止の表示も検問もなかったのです。
 私たちはテレビやラジオで1.5575ミリ(1557.5マイクロ)シーベルト/時という値を聞いたのですが、その当時の一般の人には、その数字の意味するところはまったく分からなかったと思います。当時、「レントゲンの何回分」「航空機での海外渡航何回分」、ということばかり強調され、「これくらいの放射線は大したことがない。」「健康障害はない。」と言わんばかりの報道でした。
 しかし、広河隆一氏、森住卓氏らによれば、2011年2月末のチェルノブイリ原発取材で、事故炉から200メートル付近で計測した値は4ミリレントゲン(40マイクロシーベルト)/時です。つまり、双葉町では、チェルノブイリの事故炉付近の少なくとも25倍以上の放射線量になっていたのです。
 私は2011年12月に初めてこのJVJAと広河隆一氏による取材の動画をインターネットで観たのですが、チェルノブイリ原発や世界の核実験場など核汚染取材のスペシャリストである取材者たちが、計測値の意味するところを理解しているため顔面蒼白になり、「これは大変なことが起きている。」と緊張している様子を見て愕然としました。「一刻も早く、住民にも東京にも世界にも知らせなくては。」と発信されたのですが、ほとんどの人には知らされず、このニュースが埋もれてしまったことを非常に悔しく思います。なぜマスコミは、放射能汚染の意味を一番よく知っている核汚染取材のスペシャリスト達の声を大きく取り上げなかったのでしょうか。パニック回避のためと、過小評価ばかり報道し、なぜ住民の命を救うことを優先しなかったのでしょうか。残念でなりません。

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