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祖母とワタシ
アナタが
『産まれ』たから
生まれたんだ。
2022秋。ひとつの灯火が
風に吹かれました。
94歳。ガンを患いながら老衰となれば
冷たい言葉ですが、悲しみはなかったかもしれません。
両親の離婚、嫁姑、摂食障害から自身の自殺未遂。
わたしの人生と、家族の絡み合いはとても複雑でした。
祖母である彼女は、
反抗期真っ盛りの私が嫌いなようでした。
いつも背を向けられ、東北なまりで、
「うるせー」と怒鳴られ、
あからさまに嫌がられていました。
気性の荒い祖母は、何度となくわめきながら
自殺行為をかかげました。
幼少期の家庭は、恐怖でしかありませんでした。
しかし、そんな彼女にも、
彼女にしかわからない、大きな闇を抱えていました。
(中略)
中学一年生の時。
反抗期真っ盛りから、私が家族に声を荒げた結果、
ある事実を知りました。
家族とはなんなのか
見えていたモノとはなんなのか、
頭の中がガラガラと崩れ落ちました。
この頃からわたしの感情は、言葉でなく、
全てを食に依存するようになりました。
『摂食障害』のはじまりです。
祖母は食べ方が雑でした。
箸で器を寄せ、箸をしゃぶっていました。
わたしはそんな姿をみるのが、
イヤでたまりませんでした。
『むさぼる』ような姿は、
どこか生々しく、
人の欲望がさらけ出されたようで
当時の私にとって、怖さを感じました。
『食べる』ことは『本能』の塊だと
この頃に感じました。
彼女は痛みを恐れ、
山のような薬を飲んでいました。
「オレ(女性の方言)は、すぐ死ぬ」
と言い続けましたが、94歳まで
ずいぶんと長く生きました。
そして、死ぬ間際まで、食べ物を口にして、
眠ったまま息をひきとりました。
『薬はすごい。人を死なせないんだな』
わたしの脳に叩き込まれました。
祖母の介護は、父が全てしました。
自営を営みながら、食事はもちろん、シモの世話まで。
誰もが、できることではないとおもいます。
板前の父が作る介護食は、
丁寧な『割烹のミニチュア』でした
一口サイズになろうが、
毎回、薬味やツマが添えられていました。
相手がどんな状態であれ、
口にするものを「美しく」提供する。
『食』のありかたを、父の背中で学びました。
死ぬことに大きな脅えをもち、
反面、誰よりも生きることにすがった祖母。
わたしに、生きることへの意味を
与えてくれたのかもしれません。
祖母を許し、自分を許す。
最後の最後まで、
喉の奥から『出したくなかった』言葉は、
「おばあちゃん、ありがとね」でした。
許しは、分かち合い。
もしかして、それを
『愛』と言うのでしょうか。
手綱が紐になり
糸となり
一本の線となり
天に行きました。