ピエール・ルイス - ビリティスの秘められた歌 (訳 石田郁男)
ビリティスの生まれ
ビリティスは、紀元前6世紀初頭、パンフィリア地方の東に位置するメラス川のほとりの山村で生まれた。この国は重々しくかつ陰鬱だった。深い森におおわれ、巨大なタウルス山塊がせまっている。岩の間からは清冽な泉がわきあがり、高台には大きな塩湖が横たわり、谷間には静寂が広がっていた。
ビリティスはギリシャ人の父とフェニキア人の母の間に生まれた。彼女は父親を知らずに育ち、子供の頃の記憶には父親の姿がない。もしかしたら、ビリティスが生まれる前に亡くなっていたのかもしれない。そうでなければ、母親だけが与えることができたはずのフェニキア人の名前で呼ばれていることがうまく理解できない。
ほとんど住む人もないこの土地で、ビリティスは母や妹たちと一緒に静かな日々をおくっていた。近くには友達の女の子たちも住んでいた。タウルス山塊の森の斜面では、羊飼いたちが羊の群れを放牧していた。
夜明けに鶏が鳴くとビリティスはすぐに起きて、馬小屋に行き、動物たちに水を与え、乳を搾った。日中は、雨が降っていれば部屋のなかで、毛糸を紡いだ。天気の良い日は、仲間と一緒に野原を走り回り、彼女に言わせれば数えきれないほどのいろいろな遊びをしていたという。
ビリティスはニンフに対して非常に敬虔だった。彼女が捧げた供物は、ほとんどが泉のためのものだった。しばしばニンフに話しかけたりもしたが、実際に会ったことはなかったようで、かつてニンフたちに偶然出会ったというあるひとりの老人の思い出をうやうやしい口調で語った。
彼女の牧歌的な生は、彼女が長々と語っているにもかかわらず、私たちにはほとんどヴェールにつつまれたあるひとつのかなしい愛の物語によって終わったのだった。愛に不幸の翳がさした途端、彼女は愛について歌わなくなってしまった。ビリティスはひとりの子供を生んだ。しかし育てることを放棄し、誰も知らないうちにパンフィリアを去り、生まれた故郷に二度と姿を見せることはなかった。
そして、再び彼女の足取りがつかめるのは、美しい小アジアの海岸線にそって彼女が海路で渡ったとされるミティリーネでだった。ハイムの推測によれば、彼女はほんの16歳という若さであった。ハイムは、ピッタコスの死を暗示する詩の一節によって、ビリティスの生涯のいくつかの出来事について年代を確かめている。
レスボスが当時、世界の中心だった。美しいアッティカと豪華なリディアの中ほどに位置するその都市は、アテネよりも賢明で、サルディスよりも堕落した都市ミティリーネを首都とし、アジア海岸に面した半島に建設されていた。青い海が街を取り囲んでいた。神殿の高みからは、水平線上にアタールナが白い線に見えたが、それはペルガモンの港であった。
狭い路地はいつも多くの人であふれ、色とりどりの布地、紫やヒヤシンス色のチュニック、透明なシルクのシクラスという上着、黄色い靴のほこりに引き起こされるバサラで華やかに飾られていた。女性たちは耳には自然の真珠をつないだ大きな金のリングを付け、腕には素朴なレリーフが彫りこまれた純銀のブレスレットをしていた。男たちも、髪は艶やかで、珍しい天然の精油の香りが漂せていた。ギリシャ人のむき出しになっているくるぶしは、ペリセリスという軽い金属でできた大きな蛇の形をした踵でカチャカチャと音を立てていたが、アジア人のくるぶしはといえば、着色された柔らかいブーツに覆われていた。群れをなすように通行人が店の前に立っていた。店といってもすべて物品を並べた陳列棚で、地区によっては、くすんだ色のじゅうたん、金糸で刺繍された覆い布、琥珀や象牙の宝飾品などだった。ミティリーネの活気は昼も夜も絶えることがなく、開かれた扉からは楽器の音色、女性の叫ぶような声、踊りの音楽がたえず聞こえてきた。ピッタコスも、このような絶え間ない饗宴の騒ぎにいくらかの秩序を与えようと、祝宴に疲れ果た笛吹きが夜な夜な宴会をすることを禁じる法律を作ったが、この法律は実際は別段厳しいものではなかった。
夫が夜な夜なワインや踊り子で時間をすごしているこのような社会では、女性は女性で集まって孤独を癒すのはいわば当然のことだった。そのため、彼女たちは、古代にすでに存在していたように、他人がどう思おうとも、堕落した快楽というよりもむしろ真の情熱に支えられた繊細な愛を好み求めるようになっていった。
当時まだ、サッフォーは美しかった。ビリティスは彼女を知っていて、レスボス島で彼女が名乗ったプサファという名で彼女のことを語っている。リズミカルなフレーズで歌うこと、そして愛する人の記憶を後世に残すことをパンフィアの少女に教えたのは、間違いなくこの素晴らしい女性にちがいなかった。残念ながら、ビリティスは、現在ではほとんど知られていないこの人物について、ほとんど詳細について語っていない。偉大な霊感者についてのほんのわずかな言葉でも貴重であっと思え、これは非常に残念なことである。ところが、彼女は、ムナシディカと呼ばれ、一緒に暮らしていたほぼ同い年の少女との友情を、約30編の悲歌に託して残している。この少女の名前は、サッフォーの一節でその美しさを称えていることからすでに知られていたが、この名前そのものには疑問があり、ベルクは単にムナイという名前ではないかと考えていた。後ほど読んでみたいこの歌は、この仮説がまちがっていたことを証明している。ムナシディカは、とてもかわいくて無邪気な少女だったようだ。愛されることが天命であり、与えられるものに対して特別の努力を必要としないがゆえに、より大切にされるという魅力的な存在の一人である。動機のない愛こそ一番長続きする。この恋は10年続いた。ビリティスの過度な嫉妬心のせいで妥協という考えがなかったために、その愛がどのように失われてしまったかを見ることになる。
ミティリーネにこのままいれば、つらい思い出にさいなまされると思ったビリティスは、二度目の旅をした。彼女の行ったキプロス島は、パンフィリアと同じギリシャとフェニキアの島で、しばしば故郷このとを思い起こさせたに違いない。
ビリティスはそこで三度目の人生を新たに歩み始めた。古代の人々の間では愛というものがどれほど神聖なものであったかをまだ理解していない人に、そのことを理解してもらうのはかなり難しいことにちがいない。アマゾンテのヘタイラは、私たちのように世俗の社会から追放された腐敗した存在ではなく、都市の最良の家庭の少女たちでした。アフロディテが与えてくれた美に感謝し、このすばらしい美しさに対して彼女へ崇拝を捧げたのです。キプロスのようにヘタイラ神殿を持つ都市は、いずれも同じようにヘタイラにたいして敬意を払っていた。
アテナイオスによって伝えられたフリュネの比類なき物語は、このような崇拝の念の一端を示すものである。ヒュペレイデスがアレオパゴスの裁判官の意見を変えさせるために彼女を裸にする必要があったとは言えないが、それでも彼女は殺人を犯したという罪は重大なものだった。弁者はチュニックの上半身だけを引き裂き、胸だけを露出させた。そして、「アフロディテの巫女と霊感を持つ者を死刑にしないよう」裁判官たちに懇願した。体の細部まで見える透明なシクラスを羽織って外出する他のヘタイラとは異なり、フリュネは髪まで大きなプリーツの衣服に包む習慣があり、その優美さは小さなタナグラ人形に残されている。友達以外の前では、彼女は決して腕や肩を露わにしたことはなく、公衆浴場にも顔を出さなかったといわれる。ところがある日、思いもよらないことが起こった。エレウシスの祭りの日、ギリシャのすべての国から2万人の人々が浜辺に集まっていたとき、フリュネは波打ち際にやってきて、衣を脱ぎ、帯を解き、チュニックまで脱ぎ捨て、「髪をすべて解いて海に入った」。この群衆の中には、この生きた女神をもとに「クニドスのアフロディテ」を描いたプラクシテレスと、「アナディオメネ」の姿を垣間見たアペレスがいたのである。美女が裸で登場しても、笑いや偽の恥が生まれたりしない、何と立派な人たちだろう。
この物語こそ、ビリティスの物語であって欲しい。なぜなら、彼女の「歌」を訳しているうちに、私はムナシディカの女友達に恋をしてしまったのだった。彼女の人生も同様に、素晴らしいものであったことは間違いない。私はただ、彼女についてもっと多くのことが語られてこなかったことを残念に思う。そして、古代の著者が彼女について知っていた、少なくとも現存している情報があまりに乏しい。二度にわたって略奪したピロデムスは、その名前さえも出てこない。美しい逸話がない分、彼女自身が語るヘタイラの生活の詳細で、読者の方々に満足していただくよう祈るばかりである。彼女がヘタイラであったことは否定できない。そして、最後の歌が、彼女がその職業上の美徳を持っていたことを明らかにしているが、同時に悪徳の弱点も持っていたことが明らかである。でも、私は美徳についてのみ知りたい。彼女は敬虔で、深い信仰心をいだいていた。彼女は、アフロディテが、彼女に対する最も純粋な崇拝者の若さが永続することに同意する限り、神殿にたいして忠実であり続けた。自分が愛されなくなった日、彼女は書くことをやめた、と彼女は言う。しかし、パンフィリアの歌が、それらが実際に体験された当時に書かれたものであるとは認めがたい。山の若い羊飼いが、どうやればエオリアの伝統的な難解なリズムで詩歌を唱えられるようになれるだろうか?むしろ、年齢を重ねるにつれて、遠い幼い頃の思い出を自分の言葉で歌うようになっていったのだろう。彼女の晩年については、何もわかっていない。何歳で亡くなったかも不明である。
彼女の墓は、M.G.ハイムがパラオ・リミッソで、アマソンテ遺跡からほど近い古い道の脇に発見した。この遺跡は、この三十年の間にほとんど消滅し、ビリティスが住んでいたと思われる家の石が、今ではポートサイドの波止場に敷き詰められている。しかし、墓はフェニキアの習慣で地下にあり、財宝目当ての盗賊の手からも逃れていた。
M.ハイムは、土で埋まっていた狭い坑道から入ったが、その奥は壁がたちはだかり、扉を取り壊さざるを得なかった。石灰岩の広くて低い天井の四方の壁は、黒い角閃石で覆われていた。石棺を飾る三つの墓碑銘とは別に、これから読む歌はすべて原始的な大文字で刻まれている。
大きなテラコッタの棺に入れられたムナシディカの友は、粘土で彫られた女性の顔の蓋の下に横たわっていた。髪は黒く塗られ、半分閉じられた目はまるで生きているかのように鉛筆で長く描かれ、頬にわずかに口のラインから生まれた微笑みが漂っているだけだった。その唇は、きれいで縁があり、柔らかくて薄く、酔っているかのよう上下の唇が合わさって、言葉には尽くせないものだった。ビリティスのよく知られている特徴はイオニア地方の芸術家によってしばしば再現された。ルーヴル美術館にもラルナカの胸像に次いで、最も完璧なモニュメントと化したロードス島のテラコッタが所蔵されている。
墓が開けられると、そこには二十四世紀前に敬虔な人の手によって置かれたままの状態で彼女の姿が現れた。香水の小瓶が土留めに吊るされており、そのうちのひとつは、長い年月を経ても芳香を放っていた。ビリティスが自分の姿を覗き込んだ磨き上げられた銀の鏡、瞼に青い化粧を細く引いた筆が、その場所にあったのだ。黄金の宝石で飾られ、雪の枝のように白く、しかしとても柔らかくもろくて触れると今すぐにでも崩れてしまいそうな体の骨の上に、永遠の遺物として小さな裸の女神アスタルテが今も見守っているのである。
ピエール・ルイス
1894年8月、コンスタンティノープル
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