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『キリエのうた』 憶えていること
2023.10.14鑑賞
キリエのうた
鑑賞してから数週間経ったのに、消化できないまま残った何か。自分だけで消化できないことは誰かに話すとちょっとよくなる。そう思って家族と話したらもっとぼんやり。それで諦めて、きっとこのままでいいんだ、と考えられたところで冷静になって書いている。
私にとっての岩井俊二監督作品
岩井俊二監督作品は、カロリーがいるから元気な時に観に行こうと思っていたのに、しとしと雨の日、映画館に行った。居候している妹の家に一人、のんびり過ごしていた日の夜。妹家族は出かけていた。
以前『リップヴァンウィンクルの花嫁』を観た頃は、私にとって大切な、長いお休みの最中。挫折したあとの抜け殻みたいに、横浜を離れて札幌のいとこの家に居候していた。将来が思うように描けない。まだ次の一歩も踏み出せない。そんな私に寄り添ってくれるような、人生はまだ続くからね、と言ってくれるような映画だった。
あの時も居候の身だった。誰かが私の居場所をいつも用意して待っていてくれる。借り暮らしで生きる私も結構好きだった。ありがたいことだ。
私の中の岩井監督作品は、いつも粘度の高い思春期を絡めとる。無邪気に。
思春期の感受性が鋭いときは、豊かだと思えればいいけれど、少しずつ自分のどこか一部がすり減ってしまうのがほとんどだった。最近は遠くのできごとに心を痛めるほどの鋭さは仕舞い、緩やかに、鈍らせるように過ごしていた。それなのに、『キリエのうた』はぐいっとこじ開けてきた。
私の物語を添えて
13年たったら小学生は大人になる。フィクションなのに登場人物はどこかで力強く生きている気がしてくる。予告では全然教えてくれなかった背景。キリエの歌は力強く、あの機材たち、あのキャリーケースのように、私はキリエの歌に力強く引っ張ってもらいながら観た。
東日本大震災、就活の説明会に参加していた私は、揺れがおさまってから外に追い出された。駅前の人だかりに妙な非日常感を覚え、ラジオを聴きながら品川から横浜まで歩いて帰った。途中、避難所に寄って休み、最後は子連れの見知らぬ人が車に乗せてくれて、家に到着。就活用の慣れない靴で6時間。ゆらゆらと余震で揺れる部屋のライトを見ながら思った。留まることもできたのに、なぜ遠くの我が家を目指したんだろう。
1年半後、就職した会社は仙台支社があり、新人研修としてボランティア活動に参加した。石巻の海が見える場所、家の土台だけが残る場所で、土を手で掘り返した。子どものお皿やケチャップ。いっぱい出てくる。ここにあった家、ここに住んでいた人。思いを馳せるほどに解像度高く刻まれた。
今回の映画体験
『キリエのうた』に出てくる人たち、きっとこんな境遇の人がいっぱいいたのだろう、いるような気がする、私はそこにいるだろうか、という気持ちが消えなかった。当事者ではないが、極限まで共感して、そばに寄り添いたい。それを叶えてくれる映画だった。
いつも借り暮らしのイッコと路花。
キリエの家を目指して走る夏彦の思い。
歌でしか表現できないキリエ。
私の物語と『キリエのうた』の世界は
どこかで繋がっている。