子どもが不登校だった1年間とその後
①不登校のはじまり
きょう二女は、熱を出しているのに遅刻&早退でもいいから「出席」したいのだと言って学校へ行った。初めての皆勤賞を狙っているのだ。
「学校へ行かなかったときには考えられないね」と送る車の中で言うと、二女は「いや、今がありえないんだよ」と答えた。
ちょうどFacebookの「過去の投稿」で、数年前二女の不登校時代に、勉強できる場所を探していたときの投稿を読んで思い出したが、学校へ行けなかった・行かなかった時間とその後を、ちゃんと覚えておこうと思って、書いてみることにした。
海外で4年間暮らし、小学校入学と同時に帰国した二女は、日本語も勉強も特に問題なく、従順で性格も優しく、空気をよく読む子で、初日から日本の学校にあわなかった。
だから、でもなく、しかし、でもなくただ、あわなかった。
帰国子女だから。海外の学校は自由だから。まじめな性格だから。規則がいろいろあるから。ランドセルが重いから。学校が遠いから。集団登校と集団下校がつまらないから・・・。いろいろな、「だから」は、いくらでも思いつくのだが、本人もわからない、ただ、つらかった、らしい。
学校から帰ってきたら楽になるかと思いきや、宿題もつらかった。
書き取りの文字をマスに入れることができなくなった。線もふにゃふにゃ。音読をやる気力もなくなり、できないことがつらくなり、帰宅しておやつを食べる力がなくなり、黄色い帽子をかぶったままテーブルの下に潜り込むように・・・とどんどん元気が減っていくのがわかった。
何がつらいかわからない。話ができる友達もいるし、先生もやさしい。勉強も宿題も難しくないし、いじめられてもいない。
ひとこともしゃべらず前の子のかかとをひたすら見て歩いた、という集団登校に、だんだん参加できなくなってきた。
わたしも、つまらなそうに歩いていく様子を見ているのがつらかった。
思い返すと、晴れの日がなかった気さえする。ずっと曇天だったんじゃないかというくらい、記憶は薄暗い。
集団登校どころか、一緒に歩いていくのも、車で送られるのも、難しくなってきた。
二女は、「学校までの道が、ずーーーーっと遠く感じる」と言った。
玄関で出られない二女を夫がかついで引っ張り出そうとしたり、学校の駐車場で、車に閉じこもる二女を先生とわたしが囲んだようなことは、どれだけ彼女を追い詰めただろうと、今考えても謝りきれない申し訳なさがある。
母であるわたしの心境としては、最初からこんな学校は面白くないし、勧めて行かせたいとは思わないな、というところだった。
でも、そのうち友達もできるだろうし、日本はこんなところだという割り切って考えることも必要だし、どんなところへ行っても順応できる子になってほしいという考えもあり、最初は嫌でも慣れるだろうとタカをくくっていた。
秋には、図書室や相談室に登校できればまだまし、という状況になった。
夫が家を出るまではなんとなく学校の準備をし、出発すると、二女に「きょうどう?」と聞いた。わたしも二女も、父親に行けないことがばれるのを恐れていたのだ。だから夫がいるうちは、学校へ行くか行かないかの話を避けた。